17世紀の日欧交流における医学と医療

17世紀の日欧交流における医学と医療


このページは、九州大学附属図書館百周年・医学図書館グランドオープン記念 第59回附属図書館貴重文物展示「17世紀の日欧交流における医学と医療」(令和4年10月6日(木)~令和5年3月31日(金))を電子展示として再構成したものです。本企画は「九州大学デジタル資料整備事業」でいただいた寄附金により運営しています。

はじめに

ヨーロッパと日本の医学が初めて出会ったのは、今から4世紀半ほど前の室町時代末のことです。しかし、より本格的で継続的な医学交流はその約100年後、オランダ商館が平戸から長崎・出島に移転した後に始まりました。出島商館医と幕府の高官および彼らに仕える医師との出会いが、医学・薬学を中心とした蘭学の誕生につながり、ヨーロッパ人もまた東洋の鍼灸治療や日本の生薬に強い関心を抱くようになりました。本展覧会では、東西の写本と版本を通して、この医学交流の軌跡をたどります。

監修 ヴォルフガング・ミヒェル 九州大学名誉教授


第1章 南蛮人の到来

イエズス会士ザビエルの来日から始まる日葡交流時代(1549-1639)において、文化交流の主な担い手となったのは宣教師と商人だった。宣教師の書簡(cartas)、年次報告、ルイス・フロイス神父の著書、長崎で印刷された『Vocabulario da lingoa de Iapam(日葡辞書)』などは、当時の医療活動に関する情報も伝えている。イエズス会に入る前に外科医の免許を取得し、貿易商をしていたルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida, 1525?-1583)が豊後国・府内に設立した病院は日本初の西洋式病院として知られているが、むしろ西洋の外科と和漢の「内科」の共生の場として注目に値する。
しかし、このアルメイダの病院は天正15[1587]年に薩摩軍によって破壊され、次第に強まるキリシタン弾圧の中で、知識や技能の伝達のための継続的な交流は不可能になっていった。1589年にイエズス会日本支部の代表コエリョ神父は修道会長に宛てた書簡の中で「医師がいなくて、薬もなく、瀉血の方法を誰も知らない、迫害の労苦から修道会士がもう3人も病死してしまった」と嘆いている。その2年後に京都で病を得た宣教師ジョアン・ロドリゲスは治療のために700km離れた長崎まで戻らなければならず、元和6[1620]年には日本人キリシタンが長崎で運営していた看病・介護施設「慈悲屋(casa da misericordia)」もすべて破壊されてしまった。
現存する和文資料の中で、府内の病院や「慈悲屋」に関連するものは一つもない。当時の西洋医療の痕跡は、断片的なものがさまざまな写本や印刷物に散見されるのみであり、それらのほとんどは17世紀に書かれたものである。

1. 外療細塹(がいりょうさいざん)

鷹取甚右衞門尉撰、菱屋治兵衛、[16--]年刊 〔初版:慶長11[1606]年〕
九州大学医学図書館所蔵(ミヒェル文庫/420) 【 精細画像

外療細塹

室町時代に金瘡(きんそう)の専門医として名を上げた播磨国の鷹取秀次(通称甚右衛門尉)は、慶長11[1606]年に75歳で『外療細塹』を刊行した。さまざまな古法の診断、薬方、疵の手当てなどに関する記述の中で、彼は薬油についてこう述べている。

「薬(アブラ) 是ハ南蛮人(ナンバンジン)用ヒル薬ナリ。ヤシヲノ(アブラ)【=椰子油】ヲニヤシテ(アカヽネ)ノヘラヲ入テ(ソレ)ニテ入レテ(ソノ)(キズ)口ヲナテ又ハ(アナ)ヘモニアイノ(アカヽネ)ニテ入テソレニ阿仙薬(アセンヤク)付テ入ルナリ。内薬ニハ通栄湯(ツウエイタウ)ト云方ヲ用ユ。」

秀次は南蛮人の医療の有用性を認識していたものの、鍼治(鍼、火鍼、掻鍼(かきばり))を行ったり、癰疽に灸を据えるなど、独自の立場からの治療法を提唱している。



2. 萬外集要(まんがいしゅうよう)

[出版者不明]、寛永19[1642]年刊
九州大学医学図書館所蔵(和漢古医書/ハ-56) 【 精細画像

萬外集要

元和5[1619]年に、山本玄仙がまとめた『万外集要』は南蛮流外科の初の版本とされているが、5種の膏薬、火酒による創洗、新大陸からもたされた「青タバコ」、焼灼止血用の焼金を挙げている程度で、金瘡医・鷹取秀次の外科術とさほど変わらない。この書が西洋医術の浸透や普及を示しているとは言えず、むしろポルトガル人が日本に来航して70年を経ても、南蛮人の外科術についてこの程度しか紹介できていないということは、キリシタン弾圧によって日欧文化交流が妨げられていた当時の困難な状況を物語っている。



3. 南蛮流不乱手外科(なんばんりゅうふらんしゅげか)1巻

[書写地不明]、[孝通]、寛文9[1669]年刊
九州大学医学図書館所蔵(ミヒェル文庫/490/1669) 【 精細画像

南蛮流不乱手之一巻

イエズス会士デ・アルメイダの外科術を示す和文の資料は残っていないが、数冊の写本に南蛮人「不乱手(ふらんしゅ)」の名が見られる。これは「Francisco」の当て字であるかもしれない。本書は南蛮流の油薬と膏薬を踏まえた金瘡の処置に加え、中国外科学から採り入れた腫瘍の治療法についても述べている。紅毛流外科が注目され始めた時期に、南蛮人の医療に対する関心が再び高まっていたようである。



4. 南蛮不乱外科

[江戸初期成立]、[書写者不明]、[書写年不明]
九州大学医学図書館所蔵(ミヒェル文庫/452) 【 精細画像

南蛮不乱外科

中国の外科学を採り入れた南蛮流外科書。人面瘡(じんめんそう)は、とりわけ膝頭にできる腫物で、傷が化膿し、人の顔のような形になる。話をしたり、物を食べたりするという説があり、文学作品にもさまざまな奇譚が見られる。

  • 人面瘡

    人面瘡

    僧侶に人面瘡の治療を求める農夫。
    浅井了意『御伽婢子(おとぎぼうこ)』寛文6[1666]刊、第9巻より



5. くすり貝

膏薬入りの貝殻 〔個人蔵〕

くすり貝
  • 日葡辞典「cusurigai」

    日葡辞典「cusurigai」

    「Cusurigai. 薬を詰める二枚貝の殻」
    Vocabulario da Lingoa de Iapam. Nangasaqui, 1603より



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