第3章 東西医学交流の舞台となった出島オランダ商館



オランダ東インド会社は慶長14[1609]年に徳川家康の朱印状に基づいて平戸で商館を運営し始めたが、1602年に設立されたばかりの史上初の株式会社内の医療体制はまだ盤石なものではなかった。当初は平戸で病人が出た際には、停泊中の蘭船の外科医や地元の医師に助けを求めたようだ。後に医療従事者の採用試験や『アムステルダム薬局方』が導入され、バタフィア(現在のジャカルタ)の病院および各地の商館における治療の均一性が確保されるようになった。
日欧の継続的な医学交流が始まったのは、オランダ商館が寛永18[1641]年に長崎の出島へ移転されたことと密接な関係がある。商館員たちは出島から出ることをほとんど許されなかったため、新しい商館に常任の外科医のポストが創設された。1641年から19世紀半ばまで、約200人のヨーロッパ人外科医、内科医、ときには薬剤師が、最短でも1年間長崎の出島商館で勤務した。それによって西洋医学がまとまった形で途切れることなく伝達されるための安定した基盤が築かれた。商館の医療従事者は、毎年の商館長の江戸参府に随行することが義務づけられており、幕府の権力者やその側近と接触する機会もあった。
外科医の住居にある医務室とは別に小さな病院があり、7月〜11月頃にかけて長崎湾に停泊する会社の船で重病にかかった乗組員はここに収容された。不審な死の場合は、遺体の検視・解剖が行われた。

1. 出島絵図

享保・宝暦頃作 〔個人蔵〕

屋敷所有者を示す出島絵図

屋敷所有者を示す出島絵図。
寛永13[1636]年に築造された出島は私有地だった。その埋め立て事業に出資した25人の豪商はオランダ東インド会社から借地料を徴収しており、ときには自身が所有する借地権を売りに出すこともあった。この平面図にはそれらの「町人」の名や八代将軍吉宗が輸入した西洋馬のための施設が記載されている。また、建物の取り壊しや、牛小屋、豚小屋、蔵、ビリヤード場などの建設予定を示す24枚の貼紙が付けられており、享保年間の役人が使っていたものと思われる。



2. 出島絵図

Arnoldus Montanus: Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy in't Vereenigde Nederland, aen de Kaisaren van Japan. t'Amsterdam, 1669より
九州大学中央図書館所蔵 (756/M/3) 【 精細画像

出島絵図

17世紀中頃の出島オランダ商館。
オランダの神学者で歴史学者のアルノルドゥス・モンタヌス(1625-1683)は、イエズス会の出版物やオランダ商館長らの報告資料を基に日本の地理・歴史・習慣などについて記した『東インド会社遣日使節紀行』を著した。同書はオランダで1669年に刊行された後にドイツ語、英語、フランス語に翻訳され、ベストセラーとなった。



3. 出島商館のオランダ職掌

出島商館のオランダ職掌


4. Examen der chyrvrgie by een vergadert door Mr. Cornelis Herls

Cornelis Herls : Antwerpen, 1643
九州大学医学図書館所蔵(ミヒェル文庫/59/1643) 【 精細画像

Examen der Chyrvrgie

オランダ東インド会社が行っていた外科学の試験の参考書。
外科医コルネリス・ヘルスが執筆した『外科学試験』は、17世紀にオランダ東インド会社が行っていた外科医採用試験のための問答書である。解剖学、治療方法、膏薬の製法など多数の項目から、同社が外科医に幅広い知識を求めていたことがうかがえる。特に重要視されていた解剖学には235ページが割かれている。



5. 17世紀末頃の出島

Thomas Salmon: Hedendaagsche Historie, of Tegenwoordige Staat van alle Volkeren. Amsterdam, 1729より 〔個人蔵〕

17世紀末頃の出島

17世紀末のオランダ商館。
トマス・サルモン著『Modern History, or Present State of All Nations(万国民の現代史)』のオランダ語版に追加されたもので、商館医の住居兼治療所、病院、その他の数々の建物が確認できる初めての絵図である。

拡大図

  • 外科医の住居兼治療所

    28番:外科医の住居兼治療所

  • 病院

    24番:病院



サイト内検索