第3章 「麻生家文書」、この逸品



「麻生家文書」はこんにちも史料整理・目録作成が行われている。第3章では、日々史料整理に携わっている学生たちと一緒にいくつか興味深い史料を紹介することで、「麻生家文書」が有する様々な史料を見てもらいたい。本章で示す史料からは、麻生家の日常から、地域社会の取りまとめ役としての麻生家、そして、自らの経営とも密接に関わる福岡地域の産業発展に向けて尽力する政治家としての太吉の様子も見えてくる。また、九州帝国大学とはその誘致段階から浅からぬ関係があり、「麻生家文書」にはその過程が垣間見える史料もいくつか残されている。一方、明治後期の炭坑経営は必ずしも順調ではなく、炭坑札(炭券)の偽造対策や大雨による排水問題、そして、採炭が見込めなくなった本洞・藤棚両坑に苦心する太吉の様子もうかがい知れる。(原口 大輔)

26. 飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事 1872年(明治4)6月 「麻生家文書」冠者Ⅰ-55-32

本史料からは数年来の不作で嘉麻郡に飢餓が発生したこと、福岡藩庁により徴税の繰延や囲い米の割り当てなどの救済が行われたこと、その上でなお嘉麻郡の現状が厳しいことが見てとれる。1972年(明治4)に福岡藩庁に提出されたこの嘆願書では、「飯塚村大庄屋 麻生賀郎」らによって、借り受けた囲い米の返済を十年がかりにするという更なる救済が求められている。ここに、村の大庄屋として人々の生活と行政との橋渡しを担うという明治初年における麻生家の役割の一端がうかがえる。また、本史料作成の翌月には福岡藩による太政官札贋造事件への処分として福岡藩は事実上廃藩となり、その後間もなく廃藩置県が行われる。以後福岡藩庁は「福岡県庁」に、翌年には麻生家の肩書きも大庄屋から「戸長」となった。(井上 修平)

飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事
飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事
飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事
飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事
飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事

【本文】

飯塚村大庄屋麻生賀郎大分村大庄屋矢野真直乍恐連名ヲ以御願申上ル事
一当郡之儀ハ累年之痛ニ而先年ゟ無限も奉掛 御厄介兎ヤ角取続居申上候処、近年不作続、別而一昨巳年非常之凶作ニ而、一統飢餲ニ可及処、数々御大造之御救助被 仰付、御蔭ヲ以助命仕候得共、積年之延操ニ而村々共大造之借財相畳、内味極々難渋ニ差迫居申候処、去冬来ゟ御出格之御詮儀ヲ以雑税之内米銭御赦免凶年備郡囲籾囲御救切等追々格別結構ニ被 仰付、誠ニ難有奉存上候、尚又此節凶年備御郡囲分半高御用捨被 仰付候ニ付組頭山見ケ〆給米ニ相渡、尚最前籾囲之内遠賀、鞍手上納分当郡え引受囲方仕居候分、右両郡え仕戻シ御郡切立米増減共ニ差引相立、過上分ハ村々え割戻シ之儀御達被 仰付重畳難有奉存上候、然ルニ当郡村々右廉々取調子仕候処、最前拝借仕候とハ乍申、余郡成キ之中ニ却而切立増仕候様相成候ニ付、何分恐多御願ニ御座候得共、遠鞍え仕戻シ米六百八拾九俵之分当未ゟ十ヶ年賦返納ニ被 仰付被為下候儀ハ被為計間敷哉、左候ハヽ御蔭ヲ以遠鞍仕戻シ其外口々差引相立、残り分村々え割渡候ハヽ一統難有奉感戴、此先弥以風俗宜敷農業相励ミ可申、於私共ニ重畳難有奉存上候、御類外 御慈悲之上宜敷御聞通被 仰付可被為下奉願上候、以上
          大分村大庄屋
             矢野真直(黒印)
  明治四年六月
          飯塚村大庄屋
             麻生賀郎(黒印)
 福岡御藩庁


27. 書簡 〔1901年(明治34)〕12月3日 「麻生家文書」762-1-5

福岡県選出の衆議院議員である多田作兵衛が麻生太吉に宛てた書簡。熊本・長崎両県の誘致運動の状況に加え、帝国大学設置のもう1つの候補地であった東北からも反対論の発生も盛んであることが報告される。多田も「国家の為め県下の為め」に一日も早い太吉の上京を求めており、誘致運動がやや厳しい状況にあったのだろう。なお、多田や太吉の他にも、藤金作や野田卯太郎、永江純一などの衆議院議員も誘致運動に名を連ねている。書簡には年次が記されていないが、多田作兵衛の所属する政友会の「党大会」が12月3日に終了したことや第16回帝国議会前後で大学設置運動が盛んであったことから、1901年(明治34)のものと思われる。(山下 拓真)

書簡 〔1901年(明治34)〕12月3日
書簡 〔1901年(明治34)〕12月3日
書簡 〔1901年(明治34)〕12月3日

【封筒表】

筑前嘉穂郡立岩村 麻生太吉殿 急要親展

【封筒裏】

緘 東京芝区南佐久間町二丁目信濃屋 多田作兵衛

【本文】

拝啓 寒気之節益御壮健奉賀候、陳ハ我党大会ハ本日無事結了致し候、弥議会召集期日も迫まり政治界賑ひ初め候、然ルニ大学之件ニてハ熊本よりも追々運動委員登り、又長崎も処分運動を始め、且東北の反対論も盛んニ起り実ニ難戦と相成候、右ニ付貴下之御上京一日も早く奉待候、御不幸後及御事業上御繁忙旁々御難渋奉察候得とも、国家の為め県下の為め御出京御急き奉願候、尤衆議院の予算ハ年内ニ相済可申ニ付、一月よりハ御帰り相成て差支有之間しく存候、右至急得貴意申候、以上
    多田作兵衛
十二月三日夕
 麻生賢台
     座下


28. 書簡 1899年(明治32)12月2日 「麻生家文書」750-18-13

九州大学設立常務委員の丸田重雄が麻生太吉に宛てた書簡。この年の11月28日、福岡県会議員の富安保太郎が九州大学設置の建議を提案しており、それに関する内容である。富安は建議にて、福岡が大学設置に適している、福岡に大学が設置された暁には、25万円分の土地と現金25万円を政府に寄付すべきである、設置に向け県知事は尽力してほしいと述べている。県会にて可決後、深野一三福岡県知事に提出され、深野もこれを受けて積極的に誘致運動を展開した。こうした県全体での運動が功を奏し、1903年(明治36)に現在の九州大学の前身となる京都帝国大学福岡医科大学が設置されることに決定した。(山下 拓真)

書簡 1899年(明治32)12月2日
書簡 1899年(明治32)12月2日

【封筒表】

東京日本橋区数寄屋町平野方 麻生太吉殿 御親展

【封筒裏】

緘 福岡県福岡市役所内 丸田重雄

【本文】

拝啓
時下益御清穆国務御尽瘁之段奉慶賀候、却説九州大学設備費寄付之義ニ付テハ兼而本県下有志委員会之決議ニ依リ県知事へ建議書提供致置候処、其後県知事ニ於テハ県会開会ノ期ニ臨ミ発案上少シ踟躕候模様有之ニ付、更ニ県会人向ケ陳情書提出致候処、県会ニ於テハ至急発案アランコトヲ望ムトノ建議満場一致ヲ以テ通過シ、引続県知事ヨリノ提案ニ対シ直ニ可決致シ、即五拾万円之内半額ハ土地ヲ以テ尓余之半額弐拾五万円ハ金円を以て寄付之義議定致候、右之次第ニ候間本県民意嚮ノ在ル処ヲ充分徹底候様今後尚一層之御尽力相仰度県下ノ為メ且ハ国家ノ為メ偏ニ奉悃願候、先ハ県会之状況御通報ヲ兼ネ御依頼迄如此ニ御座候、匆々敬具
 明治三十二年十二月二日
  九州大学設立常務委員 丸田重雄
代議士 麻生太吉殿


29. 九州大学設立ノ位置ハ福岡県最好適地タルノ説明書 〔明治後期〕 「麻生家文書」第38回帝国議会-25

九州大学設立ノ位置ハ福岡県最好適地タルノ説明書

当時修猷館長であった隈本有尚が作成した説明書。位置、交通、学事成績、学材の供給、気候、衛生、風俗の7要素を挙げて、熊本県に比べ福岡県がいかに九州大学設置の「最好適地」であるかが力説される。後半の欠けた箇所には、各県の生徒数や気温に関するデータなども掲載されていたようである。隈本は他にも『福岡日日新聞』に福岡県への九州大学設置を主張した記事を掲載するなど、誘致運動に積極的な姿勢を見せた。また、当初は長崎県でも誘致運動が展開されていたが、同県が高等商業学校誘致を決定し大学誘致運動から撤退すると、福岡・熊本両県での誘致運動が激化していった。(山下 拓真)


30. 葉書 〔1925年(大正14年)〕 「麻生家文書」書簡T-804、書簡T-805、書簡T-806、書簡T-814

葉書 〔1925年(大正14年)〕

11925年(大正14)8月30日、九州帝国大学医学部第一外科より出火、第二第三内科・第一外科・整形外科・衛生学・法医学教室などが全焼する被害に遭った。太吉はすぐに見舞の電信を発し、それに対する医学部教官からのお礼状である。飯塚病院設立計画以来、麻生家と九州帝国大学医学部との関係は深く、三宅速(外科)とは医療機器購入の相談をしたり、小野寺直助(内科)は太吉の最期を看取るなど、公私にわたる交流があった。(原口 大輔)


31. 書簡 〔1905年(明治38)〕12月21日 「麻生家文書」闕-154

福岡県選出の立憲政友会所属衆議院議員である野田卯太郎が、麻生太吉へ送った書簡である。井上馨の勧誘を受け、貝島太助ら他の筑豊炭鉱主と共に政友会へ入党した太吉は、選挙費用などを度々同党へ寄付している。他の炭鉱主と呼応して行う場合もあり、本書簡で受取が伝えられたものも、そのような寄付行為の一環であろう。
書簡後半は、当時の政友会総裁西園寺公望による組閣の見通しを報じる。本書簡が認められたまさに当日、政権禅譲の密約に従い、首相桂太郎以下、第一次内閣閣僚は辞表を提出した。「桂園時代」を象徴する桂・西園寺間の政権授受が、水面下の交渉を経て遂に実現せんとする瞬間の政界の声を伝える点でも興味深い。(田代 恵悟)

書簡 〔1905年(明治38)〕12月21日
書簡 〔1905年(明治38)〕12月21日

【封筒表】

筑前嘉穂郡立岩村 麻生太吉様 貴下

【封筒裏】

東京 野田卯太郎

【本文】

拝復 政友会本部寄付金四百円手形を以て御送付被成下、正ニ拝受仕候、且当日早速送付該受取書は、貝嶋氏分一同貝嶋栄三郎氏へ相渡置候間、右御了承被成下度候、次ニ政界之暗流も弥々公然と相成事ニ御座候、今後如何可相成歟、要するに西園寺内閣組織可致歟と想像仕候、此段先ハ右迄申候、敬具
  十二月廿一日 野田生
 麻生老台
   貴下


32. 書簡 1913年(大正2)7月19日 「麻生家文書」書簡T2-13

三池郡出身の立憲政友会所属主義院議員・永江純一が、鎌倉で病気療養中だった井上馨、桂太郎を病気見舞に行った時の様子を麻生に伝える書簡。井上は「乳母車」に乗って元気だが、桂は病状が重く、日に日に衰弱しているという。約3か月後、桂はこの世を去ることとなる。(原口 大輔)

書簡 1913年(大正2)7月19日
書簡 1913年(大正2)7月19日
書簡 1913年(大正2)7月19日

【封筒表】

福岡県嘉穂郡飯塚町 麻生太吉様 侍史

【封筒裏】

〆 東京市赤坂区青山南町壹丁目五十五番地 永江純一

【本文】

拝啓 陳は過日は参上御世話ニ相成恐縮ニ奉存候、其後予定之通リ十五日出立、神戸ニ立寄十七日朝着京、昨日鎌倉ニ至リ井上侯、桂公を見舞申候、井上侯は新聞ニも記載候通リ乳母車ニ乗リ本田及書生ニ推さセ下女ニ傘を差掛さセ元気能ク、長谷より八幡宮前を運動等被成居候処、桂公ハ頗ル重態之模様ニて見舞客ハ凡て坂下ニ天幕ヲ張リ仮家ヲ建、受付応接室等を設け、親族其他接客ニ忙シき有様ニ御座候、日々増衰弱相加リ到底全快は六ヶ敷模様実ニ気之毒ナル状況ニ御座候、其他別ニ相変リ候事無之、先ツ沈静之姿ニ御座候、右着京之御通知旁申上度、如此ニ御座候、早々敬具
   七月十九日
                永江純一
  麻生太吉様
      侍史


33. 東洋製鉄敷地ニ関スル書類 〔1917年(大正6)~1918年(大正7)〕 「麻生家文書」あ-21

第一次世界大戦中の鉄鋼需要を受け、1917年(大正6)11月に東洋製鉄株式会社が設立され、麻生太吉は晩年まで同社取締役を務めた。太吉は同社製鉄所の敷地選定にも携わり、陸海交通の充実や筑豊への近さなどを理由に、糟屋郡香椎(現福岡市東区)を敷地に推薦する。福岡市政財界の支持を受けながら、太吉自身も現地踏査に赴くなど積極的な誘致運動を展開した。
本史料群は、香椎を推薦する太吉の意見書や誘致上の参考資料、関係者からの書簡などの誘致運動に関わる史料計21点から成る。なお、同じく製鉄所建設を計画した久原家との合併の関係から、敷地は遠賀郡戸畑(現北九州市戸畑区)に決定され、運動は失敗に終わった。(田代 恵悟)

東洋製鉄敷地ニ関スル書類
東洋製鉄敷地ニ関スル書類
東洋製鉄敷地ニ関スル書類
東洋製鉄敷地ニ関スル書類
東洋製鉄敷地ニ関スル書類
東洋製鉄敷地ニ関スル書類
東洋製鉄敷地ニ関スル書類

【本文】

   意見書
東洋製鉄株式会社曩キニ発起セラルヽニ当リテハ世間大ニ歓迎シ其工場敷地各地ヨリ要望アリ、又田崎学士数回ニ至ル実地ノ調査、殊ニ中島男爵ノ実査アリタル今日ナレハ、適当ナル敷地ノ撰定ヲ見ルモ近キニアルベキコトヽ存候、
工場敷地トシテハ工業用水、飲料水ノ豊弱如何、交通機関ノ設備、土質地盤ノ関係、将来工業都市タルベキ居住民ノ敷地并ニ之ニ供給集散スベキ物資ノ原産地ノ遠近ヲ考慮スベキハ勿論、今日ノ時局ニ於テハ熔鉱炉ヲ一日モ早ク築造シ、銑鉄ノ供給ヲ第一着手ニ開始スルハ最大急務ニシテ、其敷地カ直ニ熔鉱炉ノ築造ニ取掛リ得ルノ便宜ヲ有シ、其他鉱石類ノ運搬ハ海上ニ由ルトスルモ数十万噸ノ石炭ハ主ニ内地ニ求メザルベカラサル関係上、原料炭田トノ交通距離ニ対シ深厚ノ考慮ヲ要スル次第ニテ、小生ハ九州ニ在リテ地理上ノ関係多少存知セル次第モ有之候ニ付、前陳ノ諸資格ニ於テ福岡県糟屋郡香椎方面ヲ最モ優秀ナル資格ヲ有スルモノト確信致候間、御詮議アランコトヲ希望スルモノニ有之候、技術上ニ渉ル詳細ノ点ハ追テ調査追補スルコトヽシ、概括的別紙図面相添エ左ニ陳述致候、
一、福岡県糟屋郡香椎附近前松原ヨリ北方海面約二十町ニ渉ル干潮ニシテ、名島ヨリ妙見崎ニ掛ケ御島ニ至ル二十五町、即約百八十万坪ヲ包含スル一帯ノ土地并ニ埋立地トス、
一、港湾ノ便宜ハ博多港築港会社第一期工事ニ於テ既ニ遠浅ノ地ヲ浚渫中ナレバ大正七年四月迄ニハ確実ニ名島附近迄水深二十尺、積量二千噸級ノ船舶出入ヲナシ得ル次第ニ有之候、仮リニ是等ノ工事ニ多少時日ノ延引スルヲ保シ難シトスルモ、西戸崎ニ於テ大船ノ碇泊ハ今日ニ於テ実現シ居ルヲ以テ、鉄道又ハ艀船ニヨリ運搬スレバ該工事多少遅延シテモ何等不便無之ト存候、
一、工業上ノ用水ハ多々羅川ニ於テ平水量三十個ヲ得、渇水時ニ対スル準備トシテハ糟屋郡谷口ノ地ニ容量一億三千万個ノ貯水池ヲ得、之ヲ導水スルニ約三十町ニ過キス、其築造費及ヒ導水費ハ最モ低廉ナルベシ、
一、陸上交通機関ハ院線九州鉄道アリ、篠栗線アリ、博多湾鉄道アリ、何レモ之ニ集中シ海陸ノ輸送ハ殆ント理想的トモ云フベシ、尚ホ企画中ノ篠栗大分間ノ大分鉄道(許可線目下中村精七郎外十数名ノ創立中)ノ竣功ノ暁ハ筑豊炭田地ニ接近シ、原料炭ノ産地方面ト其距離僅ニ二十三、四哩ニ過キサルニ至ルヘシ、
一、地質地盤ハ全部水成岩ニシテ干潮ノ場合ハ遠ク御島迄一面ノ岩盤ヲ露出シ、僅カナル埋立ヲナシテ直ニ工業地トシテ使用シ得ヘシ、況ンヤ名島前松原ニ於ケル平地ト共ニ熔鉱炉ノ敷地トシテ直ニ之ヲ用ユルコトヲ得テ速成ノ急務ヲ叫フ今日ニ於テ最モ適当ノ地タルコトヲ証明致候、
一、物資ノ集散ハ福岡市ニ近ク、東ハ門司、小倉ニ便宜ニシテ大工業都市ヲ形成スルニ何等ノ困難ヲ感セサルヘシ、
以上ニ陳述セシ如ク、製鉄所敷地トシテ適当ノ場所ト確信致候、又直ニ熔鉱炉ヲ建設シ銑鉄ノ急需ニ応スルコトヲ得ハ、会社ノ幸福無此上候、仮リニ原料炭百万噸ヲ輸送スルモノトシ、其距離十八、九哩ヲ短縮スルコトヲ得ハ、運搬費一屯約五拾銭ヲ節約シ、一ヶ年ニハ五十万円ヲ軽減シ得ヘシ、
右忽卒概略ノ陳述ニハ候得共、右敷地ニ関スル問題ハ重要ノコトニ相信シ候ニ付御詮議希望仕候、拝具
          東洋製鉄株式会社
           創立委員 麻生太吉
 大正六年十月十七日
東洋製鉄株式会社
 創立委員長 中野武営殿


34. 冷水越鉄道速成請願ニ関スル書類 〔大正期〕 「麻生家文書」諸-12

冷水越鉄道速成請願ニ関スル書類

1892年(明治25)に制定された鉄道敷設法では、九州線として飯塚・原田間が予定線として定められた(現在の筑豊本線)。しかし、原田駅から長尾駅に通じる線路を敷設するためには冷水峠を越える難工事が待ち受けていたためか、なかなか工事予算を獲得することができなかった。当時、貴族院議員だった太吉や福岡選出立憲政友会代議士らは関係町村と協議のうえ、帝国議会に請願を行い、第43回帝国議会(1920年〔大正9〕)で工事予算を獲得することに成功した。本史料にはその請願運動に関する意見書をはじめ、関連書類、関係者間の書簡などが一括されている。(原口 大輔)


35. 官幣大社筥崎宮御造営落成奉祝会協賛会事蹟 〔1928年(昭和3)〕 「麻生家文書」た-75

官幣大社筥崎宮御造営落成奉祝会協賛会事蹟

太吉は筑豊に留まらず、福岡市をはじめ全国各地の様々な事業に寄附を行っていたことが団体・事業ごとの簿冊によって判明する。太吉は筥崎宮の造営に対しても協力しており、官幣大社筥崎宮御造営落成奉祝会協賛会顧問を委嘱されていた。(原口 大輔)


36. 書簡 〔1910年(明治43)〕5月10日 「麻生家文書」う-307

1910年(明治43)はハレー彗星が約76 年ぶりに地球へ接近した年であるが、その際社会には様々な風説が出回った。例えば茨城県のある地域では彗星落下の危難を避けるために「赤飯を焚き七社参りをなす」人々が大勢現れたという。こうした「デマに踊らされる」明治時代の人々の姿は一般にイメージされやすいかもしれない。翻って本書簡は、麻生太吉から学資の援助を受けて第五高等学校に通っていた加藤寛一郎という学生が、両親及び太吉へハレー彗星出現に際しての所感を書き送ったものである。この書簡から加藤は「わるい事は皆此の彗星の所為に」する人々の姿勢に疑問を抱いていることがわかり、上記のような人々の姿がこの時代の全てではなかったことを示唆している。(進 竜一郎)

書簡 〔1910年(明治43)〕5月10日
書簡 〔1910年(明治43)〕5月10日

【封筒表】

福岡県嘉穂郡飯塚町(〔立〕)岩 麻生太吉様 直披

【封筒裏】

熊本市外大江村五五〇白壁方
 (〔五〕)月十日 加藤寛一郎

【本文】

桑乃葉ハお暗きまでに繁り麦はまたかれつゝのみ候、月日の経過は時々刻々周囲之自然にあとつけられ居、人々は単衣にて秋は蚊の攻撃に困り居候、 皆様益々御多祥にて御替遊ばされ居り候段大慶之至りに奉存候、はれー彗星の現出について人々の注意をひき居候、英帝の崩御、青森市の大火、何でもわるい事は皆此の彗星の所為にいたし居り候、彗星もよい災難かも知れず候、
五月十七日か十八日頃果して此の世に大変化を来すべきか、是非見のがすべからざる事に御座候、
此の頃毎日大方曇りにて此の彗星をみる事を得ず遺憾に存居候、
私事幸に壮健に勉学罷在候、
 五月十日夕
           寛一郎
御両親様
   御一統


37. 書簡 〔1904年(明治37)〕2月16日 「麻生家文書」闕-294-2

本書簡は、麻生・安川と並び「筑豊御三家」と称された貝島太助から麻生太吉への書簡である。書簡では東京で設立される財団法人帝国軍人援護会への義捐を要請している。帝国軍人援護会は1904年(明治37)に設立された財団法人で、日露戦時の軍事援護方針のもとに位置付けられ、皇族を総裁、井上馨や松方正義を副総裁に戴き、有力華族、三井や三菱など有力財閥を基盤として作られ、地方の富裕層などからも募金を集めた。また募金額もそれ以前の団体とは段違いであった。本書簡では貝島が「御迷惑乍ら」と述べつつも、麻生に協力を求めているのが興味深い。明治30年代、貝島ら筑豊の炭鉱経営は苦しく、経営維持を井上の援助によるところが大きく、井上からの要請を拒否できなかったものかと思われる。こうした中央の政財界と地方実業家の力関係が見られる点も興味深い史料である。(三浦 颯太)

書簡 〔1904年(明治37)〕2月16日
書簡 〔1904年(明治37)〕2月16日
書簡 〔1904年(明治37)〕2月16日

【封筒表】

本洞炭坑 麻生太吉殿 御直披

【封筒裏】

直方 貝嶋太助

【本文】

謹啓 益御清適奉大賀候、陳ハ今回東京ニ於而、財団法人として帝国軍人援護会なるもの設立相成、定めし貴下にも副総裁たる井上伯より御手紙参り居候事ならんと奉存候、実ハ今日事多き中、御互ニ出金等ハ六ヶ敷候ヘ共、伯より出格之御申越しニ付、当方ニ於而ハ左記之通り義捐する事ニ相決し申候、貴下も乍御迷惑相応之御義捐奉希望候、尚又御所有坑所事ム員へも御勧誘方宜布御取成奉願上候、先ハ要用迄得貴意度如此御座候、不具
 二月十六日
           貝島太助
  麻生太吉様
      貴下
一金五千円
  内訳
 金参千円 貝嶋太助
 〃壱千円 貝嶋六太郎
 〃壱千円 貝嶋嘉蔵


38. 書簡 1904年(明治37)5月11日 「麻生家文書」潜-5

1904年(明治37)に太吉が、三井銀行と三井物産の社長に宛てた書簡である。太吉は、1899年に藤棚炭坑、1902年に本洞炭坑を譲り受ける。二坑は、麻生所有坑区内の石炭生産高の半分、純益高の六割を占める重要な炭坑であった。操業に全力を注ぐが、本洞坑の火災などにより、経営が非常に苦しくなっていることが「汗顔ノ至」といった表現からうかがえる。書簡の終盤では、三井に資金融通を頼み、坑区を三井名義にすることをも提案する。最終的に1907年、両坑は三井鉱山に125万円で買収され、太吉は借入金返済にこぎつけるのであった。(中村 麻鈴)

 書簡 1904年(明治37)5月11日
 書簡 1904年(明治37)5月11日
 書簡 1904年(明治37)5月11日
 書簡 1904年(明治37)5月11日
 書簡 1904年(明治37)5月11日
 書簡 1904年(明治37)5月11日

【封筒表】

合名会社三井銀行社長 三井高保様
三井物産合名会社社長 三井八郎次郎様

【封筒裏】

筑前国嘉穂郡笠松村 麻生太吉

【本文】

謹啓仕候、陳は従来家父ノ遺業ヲ継キ、微々タル石炭坑業ヲ経営仕居候処、明治三十二年中、親戚吉川某藤棚炭坑譲受ニ際シ、過ツテ保証債務者トナリ、不幸ニモ該坑失火ノ変災ニ遭遇シ、消火ノ為メ多大ノ費用ヲ要シ、重テ多額ノ金額ヲ投資シ吉川某ハ債務償却ヲ怠リ、終ニ代弁ノ地位ニ立至リ無止自ラ経営致サザルヲ得サル事ト相成申候、就テハ債務完済シ得ヘキ義ハ過分ノ重荷微力ノ難堪処ニ御座候モ、奮励従事、漸次経営其緒ニ就キ申候、 然ルニ藤棚坑隣接本洞坑ハ同質同層ノ石炭含有シ、従来同一ノ経営ナリシモ、中途ヨリ許斐某分割操業シ、続テ堀某経営中非常ノ困難ニ陥リ、不肖藤棚坑引受ニ際シ、当時合併操業ノ勧誘ヲ受クルモ、到底微力ノ企及スヘキ事ニ無之、堅ク相断リ申候モ、合併坑業ノ暁ハ一ニハ許斐、堀ノ困難ヲ救ヒ、一ニハ経済上ノ利益ヲ得候等ヨリ尚重テ勧誘ヲ受ケ候折柄、当時上京中ニテ有之井上伯爵閣下并ニ貴社重役諸賢ノ御同情ヲ得、資金融通ノ道相開ケ、尚当時貝嶋君ヨリ最モ助言ヲ受ケ、終ニ本洞坑引受申候、尓来本業ノ経営上ニ就テハ、乱雑ナル坑道ヲ修理シ、排水機ノ改修補足、汽罐ノ増設修理等、坑内外ノ総テニ向テ全力ヲ注キ、一意専心整理ヲ本旨トシ従事罷在申候、為其過分ノ資金ヲ投下シ申候。元来本坑山ノ成功ハ仮令如何ナル熱心ヲ以テスルモ微力ノ企図スヘキ事ニ無之候、只貴社ノ御庇護ヲ仰クニ在ラサレバ到底望外ノ事ニ属スル儀ニテ、貴社ノ御庇護ヲ仰クハ、一ニ言責ヲ重ンジ其信用ヲ維持スルノ外無之ト深ク確信致シ、収入ノ残余ヲ待ツニ遑ナク増資ハ申ニ不及、貴社拝借金契約履行ニ就テハ、一時他ヨリ融通ヲ仰キ、微々タル担保ニ供スヘキモノハ悉皆之ヲ提供シ、且信用ノ及フ限リノ融通ヲナシ貴社ニ対シ債務ノ履行候モ、不幸炭況日々悲境ニ陥リ、契約履行不能、遂ニ本年一月ヨリハ特別御憐憫ヲ以テ坑山利益金ニヨリ嘗テ拝借金ノ元利償却ニ充当被成下候事ニ相成申候、就テハ本年度ニ於ケル採炭力及拡張方法等、先ニ設計書ヲ提出仕、着々其緒ニ就キ申候。斯ル御高庇ヲ相蒙リ候以上ハ、今後操業上ニ於ケル資金ノ融通須ク得可申予定ニテ有之申候処、不幸本年二月ヨリ本洞坑ニ於ケル自然発火ノ変災ヲ来シ、其直接蒙ルノ損害ハ多カラスト雖トモ、坑夫ノ離散、採炭力ノ減少等、其間接ノ損害ハ実ニ不尠額ニテ有之、随テ貴社ニ対スル返納金ノ如キ、採炭減少ノ為メ予算ノ実行ヲ欠キ今更汗顔ノ至ニ奉存上候、乍併当初ノ一大目的タル排水機械改設工事モ最早大半進行シ、七月上旬ニハ必ス竣工運転可致予定ニテ有之候得は、本年後期ニ於テハ仮令前期ノ不足ヲ補充可致迄ニ不至候トモ必スヤ実行ヲ可期次第ニ御座候、然ルニ本洞坑ノ如キ引受当時ヨリ負債ノ利息及拡張費仕払ニ於テ其収入ニ不足スルコト金七万六千余円ニテ有之、且又貴社ヨリ初発拝借金芳雄、豆田坑ニ対スル金弐拾五万円、笹原坑ニ対スル金参万円、本洞坑ニ対スル金拾六万五千円、計金四拾四万五千円ノ内、金拾壱万八千円返納金ノ如キ一時悉ク他ノ融通ニ仰キタル結果、貴社ニ対スル債務ヲ減シタル額ハ、即チ他ヨリ信用負債ヲ増加シタル次第ニテ、別紙明細書ノ通ニ御座候。現下時局問題ノ為メ此等信用融通ノモノ非常ノ厳促ヲ受ケ最早如何トモ致方無之、実ニ悲境ニ立至リ、他ニ縋願可仕手段モ無之、左リトテ坑業ヲ中止シ貴社初メ多数債権者ニ累ヲ及ホス如キハ断シテ忍ヒサル処ニ有之申候、況ンヤ本年后期后ニ至ラハ予算ノ目的ヲ達シ得ヘキノ成算確定致候義ニテ御座候得バ、此際出格ノ御詮議ヲ以テ、既ニ返納仕候元金拾壱万八千円(御採用ノ暁ハ金弐万九千円ノ無担保拝借金ハ御控除被成下度)御貸戻ノ御聴許被成下度奉歎願候、本件御縋願ノ金額全部ハ別紙明細書ノ信用借入金額拾四万九百五拾八円拾九銭一厘ノ払入ニ充当シ、尚不足金弐万弐千九百五拾八円拾九銭一厘ノ分ニ対シテハ今後経費ヲ節シ、漸次払入償却ノ予算ニテ御座候、本願御聴許ヲ得候上ハ、担保物保安ノ為メ、坑区ヲ貴社ノ名義ニ書換候義ハ不苦次第ニテ、其辺ハ一ニ貴社ノ命令ニ相随ヒ可申候、尚詳細ノ義ハ竹田ヲ以テ御願申上候条、御聞取被成下度奉懇願候、
恐惶謹言

  明治三十七年五月    麻生太吉(朱印)
合名会社三井銀行社長 三井高保様
三井物産合名会社社長 三井八郎次郎様
              虎皮下


39. 通知書 1904年(明治37)5月11日 「麻生家文書」会-41-28

通知書 1904年(明治37)5月11日

笹原炭坑で偽の炭券が使われたことを受けて、注意・取締りを求める通知書。笹原炭坑は千手村(現嘉麻市)にあり、当時は麻生太吉が経営の一端を担っていた。炭券とは、各炭坑が賃金支払いのために発行した金券のこと。炭券は使用がその炭坑の内部に限られる、廃業時には無効になるなど経営側に都合が良かった一方で、そのような特徴を持った炭券は労働者にとって「直接的な暴力よりしまつの悪い圧制」(山本作兵衛)であった。史料に見えるような、労働者による炭券の贋造はしばしば起きた。自坑での贋造の発覚を受け出された「厳重」などの文言が並ぶ通知書からは、経営側の炭券への強い執着がうかがえる。(北川 雄一朗)


【本文】

                吉浦(印)
                麻生屋(印)
此度笹原炭坑ニ於テ贋造炭券ヲ行使スルモノ有之候ニ付、貴坑ニ於テモ右等悪手段ニ罹ラサル様注意シ厳重御取締相成度、此段及通達候也
   明治三十七年五月十一日
          麻生商店


40. 書簡 1904年(明治37)6月27日 「麻生家文書」闕-543

本書簡は大雨被害を受け、許斐が太吉の無事を祈り送付したものである。この大雨は同月23日に東シナ海で発生した低気圧が連日九州を襲った梅雨を指しており、書簡の「近年希ナル暴雨」の通り13年ぶり、当時観測史上2番目の雨量に達した。この大雨により福岡では、河川の氾濫や道路・堤防の破損、死傷者も出るなど甚大な被害に及んでいる。さらに筑豊炭坑の多くでは満水となったために復旧が難しい状態に陥ったが、麻生が所有していた藤棚炭坑は中泉方面の堤防が決壊したことで減水し、結果的に大きな被害を免れることができた。(橋本 彩華)

書簡 1904年(明治37)6月27日
書簡 1904年(明治37)6月27日

【封筒表】

嘉穂郡飯塚立岩 麻生太吉様

【封筒裏】

粕屋郡久原村ゟ 許斐鷹助

【本文】

拝啓 陳は時下連日鬱陶敷天候ニ存候処、愈々御清適奉敬賀候、扨此度は近年希ナル暴雨ナリシ故、御所有各坑内定テ増水御心配之事ト奉遥察候、シカシ予テ十分之御手当モ有之候条、大害ヲ醸ニハ至リ申間敷、乍䕃御無事相祈居申候、右等申上度如此ニ御座候、敬具
 六月廿七日 許斐鷹助
  麻生様
    侍吏


41. 書簡 1905年(明治38)8月4日 「麻生家文書」闕-257

通知書 1904年(明治37)5月11日

本書簡は貝島が大洪水について太吉を見舞うものである。この洪水は7月25日より連日九州北部を襲った暴雨であり、昨年並びに観測史上最も雨量の多かった1891年(明治24)7月を超え、当時過去最高の豪雨となった。嘉穂郡では突貫橋の流失や市街の浸水のために一部では船を使って濁流の街を移動する程であった。また他地域では河川の氾濫により死傷者も発生しており、『福岡日日新聞』では8月3日まで毎日出水情報が掲載されている。特に麻生や貝島礦業合名会社が所有する炭坑に大きな被害は無かったが、同新聞によると、多少の浸水のために今後の筑豊炭坑の採掘力の減少や炭価の高騰が懸念されている。(橋本 彩華)


【封筒表】

福岡県嘉穂郡笠松村 麻生太吉殿 虎皮下
神戸市三井物産会社 貝島太市

【本文】

  明治卅八年八月四日
厳暑の砌御全家御一統様益々御多祥御壮栄の段奉大賀候、降て不肖以御蔭無事消光罷在候間乍他事御放念願上候、
過日来大洪水にて御地辺は非常の出水ありし由、さぞ〳〵御心労致されし御事と乍蔭御察し申居り候、然かし御子息様よりの御文面に依れば御宅並びに御砿共さしたる御被害も無かりし由芽出度き限りと御よろこび申述候、
先日鶴十郎様御帰国の節は御急きの為め何の御かまいも仕らず失礼致候段、悪からず御海容願上申候、
御宅皆様へ愚妻よりも呉れ〴〵宜敷申出候、不尽再拝
 麻生殿
   座右
           貝島太市





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