第2章 麻生商店の経営と労務管理



「麻生家文書」の特徴の一つとして、明治中期から後期にかけての炭坑経営に関する史料が膨大に残っていることが挙げられる。第2章では、主に明治期を中心に、麻生商店の経営や労務管理に関する史料を紹介したい。「家掟」で規定されたことをうけ、麻生商店が経営する各坑でも日々の業務日誌が作成され、あるいは業務に用いられた書類がまとめられ、坑夫をはじめとする従業員の勤怠も管理された。そして、太吉は掘り出した石炭を運び出し、売買するために多くの関連会社を創設し、そして参画していった。さらに、筑豊の炭鉱資本家たちが石炭輸送問題、鉱山保安問題、採炭制限などを討議する筑豊石炭鉱業組合が結成され、直方に事務所が置かれた。太吉も1911年(明治44)に総長に就任するなど、筑豊の石炭業界の代表的な立場となっていく。(原口 大輔)

15. 鯰田坑山諸雑用留 1887年(明治20)1月 「麻生家文書」M21-1

鯰田坑山諸雑用留 1887年(明治20)1月

鯰田坑に関する書類、領収書や備忘などを綴った簿冊である。「家掟」制定前にも「麻生家文書」には各坑ごとにこのような簿冊が数多く作成されていた。(原口 大輔)


16. 本洞施業方針 1904年(明治37)6月 「麻生家文書」宙-1-1

本洞施業方針 1904年(明治37)6月

採掘に着手する際に、その方針をまとめたものを施業案といい、主務官庁に提出して許可を承けなければならなかった。この施業案では本洞坑の採掘方針、採掘計画、収支計画に始まり、含有炭量、坑内運搬、旋風機の設置計画、排水方法・設備費、汽罐、坑夫運用計画、炭車や安全灯の必要数などが計上され、20年分の採掘見込が立てられた。ただし、太吉にとって本洞坑の経営は困難に見舞われ、窮地に立たされることとなる。(原口 大輔)


17. 藤棚炭坑関係書類 1901年(明治34)12月 「麻生家文書」藤-4

藤棚炭坑関係書類

本史料は「藤棚坑運炭九鉄ト往復書類」、「参考証」の二種類の書類が「藤棚炭坑関係書類」として編綴されている。九鉄とは九州鉄道株式会社のことである。1901年(明治34)12月、藤棚坑の権利を吉川幹次より譲渡された太吉は、吉川と同様の内容で九鉄と運炭に関する契約を結ぶこととなった。しかし、本洞坑と同じく藤棚坑の経営もうまく行かず、明治末期の麻生商店は経営困難に陥ることとなる。(原口 大輔)


18. 麻生商店洋式会計帳簿 「麻生家文書」麻生商店-M31-3

1897年(明治30)より、麻生商店では大判の洋式会計帳簿を導入し、収支をはじめとする日々の出納や坑夫などへの賃金などの記録をしたため、それらは年次・項目ごとに製本された。各地の麻生商店出張所や嘉穂電灯など太吉が手掛けた関連会社、あるいは麻生本家に関するこのような帳簿は、「麻生家文書」中に現在約3900点が確認されている。(原口 大輔)

麻生商店洋式会計帳簿
麻生商店洋式会計帳簿

19. 勤怠表 1895年(明治28)1月 「麻生家文書」余-29

勤怠表 1895年(明治28)1月

坑夫のみならず、その他の従業員の勤怠管理簿も「麻生家文書」には数多く残されている。本史料は福間久一郎や上田穏敬といった麻生商店幹部や、「下男」・「下女」、「洗濯人」など麻生本家に仕えた使用人に関する勤怠表が一冊にまとめられている。新暦対応の勤怠表を使いつつも、旧暦で勤怠をつけていた人物もいたようで、「新」や「旧」といった書き込みも見られる。(原口 大輔)


20. 鉱業各係員日誌 1906年(明治39) 「麻生家文書」こ-1~5

鉱業各係員日誌 1906年(明治39)

従業員に配布された日誌。表紙裏にある注意書きを読むと、本日誌にはなるべく詳細に事項を記入すること、退坑の際または翌朝必ず鉱長及び係長に見せて認印をもらうこと、日誌は4ヶ月ごとに新調し、旧日誌は事務所に返納することなど定められていた。管理職が詳細な勤務内容を確認することは、第一には従業員に対する労働管理の一環であるが、坑内環境の異変を知る手掛かりなどのように、麻生商店の記録としても活用していたことがうかがえる。(原口 大輔)


21. 負傷救恤願書綴 1899年(明治32)陰正月 「麻生家文書」二坑D-15

負傷救恤願書綴 1899年(明治32)陰正月

坑内での作業は常に危険と隣り合わせであり、落盤や炭車との衝突、機械に基づく事故などによって負傷する坑夫も少なくなかった。本史料はそのような事故の記録や医師による診断書、治療経過報告、救恤規則に基づく治療費請求書などがまとめられた綴である。(原口 大輔)


22. 筑豊興業鉄道会社創立ニ係ル書類 〔1888年(明治21)6月13日~1891年(明治24)8月31日〕 「麻生家文書」筑鉄-1

筑豊興業鉄道会社創立ニ係ル書類

筑豊興業鉄道会社は、筑豊で産出される石炭を運搬するために設立され、1891年(明治24)に若松・直方間の開通で始まった。その後、1894年に筑豊鉄道と改称し、1897年に九州鉄道に吸収合併された。太吉は創立から関わり、本史料には株主総会決議録をはじめ、書簡・葉書や各種書類が編綴されている。(原口 大輔)


23. 筑豊鉱業組合予算・決算書類 〔1890年(明治23)~1901年(明治34)〕 「麻生家文書」組-4

筑豊鉱業組合予算・決算書類

筑豊石炭鉱業組合は、1885年(明治18)に筑豊各郡の石炭坑業組合の連合組織として発足し、1893年の改組によって成立した(簿冊表題には「石炭」の字が省略されている)。石炭輸送、石炭販売、坑夫取締、賃金統制、坑夫救恤問題などが議論され、各種統計が作成された。本史料は、組合の収支決算報告書や請願のために上京した委員の報告書などが綴られている。(原口 大輔)


24. 若松築港会社定款・申合規約・議案・決議録 〔1890年(明治23)~1904年(明治37)〕 「麻生家文書」若築-1

若松築港会社定款・申合規約・議案・決議録

遠賀郡若松村は筑豊石炭の積出港として幕藩時代から重要な役割を果たしており、明治期になり石炭の発掘量が増加し、筑豊興業鉄道が開通すると、洞海湾の築港開発が急がれることとなった。筑豊五郡坑業組合(のちの筑豊石炭鉱業組合)総長の石野寛平らは1888年(明治21)に会社創立を県に上申し、1890年5月23日、許可を受けた。1893年には社名を若松築港株式会社と改称し、開発に従事することとなる。本史料のように、太吉が関与した会社の関係史料を綴った簿冊は数多く残されており、太吉の経済活動のみならず関連会社の経営を具体的に知る上で貴重な情報となる。(原口 大輔)


25. 麻生商店パンフレット 〔昭和前期〕 個人蔵

1918年(大正7)に個人商店から株式会社へと再編された麻生商店のパンフレット。古書店に出品されていたものを著者が購入した。麻生商店が経営する炭坑や鉄道路線図が印刷された山折りの表紙の内側に、ジャバラ状で両面印刷となっている各所案内が挟み込まれている。一部ではあるが、掲載された写真から当時の様子も垣間見えて興味深い。(原口 大輔)

麻生商店パンフレット
麻生商店パンフレット
麻生商店パンフレット




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