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附章 武谷文庫の紹介—九州大学と武谷家
福岡の著明な医家の一つである武谷家は、九州大学と深い関係にあります。武谷椋亭が計画し責任者となった福岡藩の医学校賛生館は、明治維新後にいったん廃校になりますが、その医学教育の流れは九州大学医学部へと繋がっていきます。そして椋亭の後裔である廣(ひろし)、止孝(しこう)、健二氏たちは九大医学部教授として活躍し、そのほか武谷家からは多くの九大卒業生を輩出するなど、多数の九大関係者がいます。
令和2年(2020)12月、九州大学と武谷家との寄託契約がなされ、福岡の医家・武谷家の資料群が九州大学附属図書館に所蔵されることになりました。元立、椋亭、水城にいたる武谷家三代の資料群は、武谷文庫と名づけられています。
武谷文庫は、元立・椋亭の自筆書類や蔵書類を中心に、軍医を退役して郷土史研究に没頭した水城が蒐集した福岡の地域資料や書簡などがあります。元立・椋亭の資料からは福岡藩のみならず日本の西洋医学導入の過程やその実態、蘭学者たちの人脈など、これまで未解明だった歴史を知る手がかりになりそうです。また椋亭の漢詩文の草稿などは、彼が学んだ咸宜園における教育のあり方を伝えます。そして、水城が蒐集した資料からは、福岡の知られざる郷土の歴史や文化がうかがえます。このように武谷文庫は、これまでの医学史、科学史、地域史、教育史等において新たな材料を提供する貴重な学術的価値を持っています。
52. 武谷文庫目録
昭和20年頃
九州大学中央図書館所蔵 【精細画像】
昭和20年(1945)、武谷止孝氏より武谷家の蔵書が九州大学附属図書館に搬入され、その後の武谷文庫寄託契約締結のために作成されたと思われる目録である。現在福岡県立図書館、九州大学中央図書館等に分散している武谷文庫の、かつての全体像を窺うことができる。
53. 武谷椋亭漢詩草稿
武谷祐之(椋亭)自筆 天保14年(1843)頃
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
武谷椋亭の咸宜園時代の漢詩の草稿で、師の廣瀬淡窓の朱批が入っており、咸宜園でどのような教育が行われていたかを示す好資料である。巻末には、椋亭が筑前に帰ることになり、両手を失うようだと嘆く淡窓の所感が記されている。詩題には石丸春牛(筑前の画家)や月形鷦窠(筑前の儒者で椋亭の恩師の一人。月形洗蔵の祖父)等の名も見え、遊学時代の椋亭がどのような人物と交遊したかも窺うことができる。
54. 武谷椋亭写真
古川俊平撮影 明治時代
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
撮影した古川俊平(1834-1907)は、日本初の商業銀板写真師といわれ、幕末長崎で写真技術を習得し、維新後、旧藩主黒田長溥から写真器を下賜され、博多東中洲に古川写真館を開業した。武谷椋亭は幕末より写真術に関心を持ち、古川の長崎・江戸遊学を推薦したとされる。
55. 黒田家臣分限帳
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
福岡藩・黒田家家臣の氏名、知行高、役職などを記した帳面。郷なお文政10年(1827)9月時点ではまだ藩医に取り立てられていないため、武谷元立・椋亭の名は見られない。
福岡藩は医師(内科医)54名、小児医15名、外療(外科医)18名、針療16名、歯医3名、眼科3名の合計109名もの藩医を抱えていたことがわかる(精細画像の24〜30コマ)。おそらく武谷水城が郷土史研究の一環で筆写し、追記等を朱書きしたと考えられる。
56. 若松沖唐船漂流之絵図
近代
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
武谷水城蒐集史料。寛政3年(1791)に若松沖に来航した、イギリスの毛皮交易船アルゴノート号の航路を記録したものの写し。アルゴノート号は玄界灘の沿岸を測量しつつ交易を求めて博多沖・小倉沖に来航したが、福岡藩・小倉藩に追い返された。江戸時代の玄界灘周辺は、密貿易を目的とした唐船が頻繁に出没していたため、日本側では、見かけない形の唐船だからかシャム船が漂着した話として伝えられた。
57. 鈍行痴事
山崎藤四郎稿 明治時代
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像 1 2 3 4 5】
武谷水城蒐集史料。江戸時代最後の博多年行事を務め、明治以降は博多築港の唱道や橋の架設、新道の開通など、博多の発展に尽力した山崎藤四郎(宗雄、1834-1913)の記録で、博多の街がどのように近代化されていったかを伝える貴重資料。一部が『博多灯台事件顛末記』(近代資料叢書第2輯)に収録されている。
58. 武谷水城宛森鴎外書簡
森林太郎(鴎外)筆 明治33年(1900)
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
小倉時代の鴎外が当時医務局衛生課長に異動した武谷水城に送った栄転祝いの書簡。鴎外が東京に復帰するための運動をしているという噂など、様々な誤解のとりなしを武谷に依頼しており、小倉時代の鴎外の心情が吐露された貴重な書簡。『鴎外全集』に唯一収録されている武谷水城宛書簡の原本。