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第四章 椋亭の足跡と福岡藩の医事
福岡藩の医学校・賛生館の提挙(校長)を務めた椋亭の具体的な事蹟については、これまであまりわかっていませんでした。今回新たに寄託された武谷文庫から、椋亭の仕事ぶりや彼の栄達、福岡藩内の医事や賛生館の様子など、興味深い事実が垣間見えてきます。
嘉永3(1850)年、福岡藩主・長溥は周囲からの批判を押し切って種痘事業に着手しました。人びとの不安や恐れなどから、種痘の実施や普及には大きな苦労がありました。その事業の展開には、藩医だけでなく郡町の医師たちの協力も必要で、そのなかに元立(椋亭父)もいました。
元立は、洪庵の適塾で医学を学び、『牛痘告諭』を刊行していた息子・椋亭を推挙します。のちに椋亭は侍医に抜擢され、長溥やその家族の診療や養育に当たることになりました。長溥は椋亭を厚く信任し、椋亭もその期待に応えて藩の医事に貢献します。椋亭はしばしば洪庵や松本良順等から知恵を借り、自らの活動に活かしていました。当時の蘭学者や蘭方医にとってネットワークがいかに重要な武器になり得たのかについても、椋亭の残した資料からうかがい知ることができます。
人びとから不信がられていた西洋医術や薬は、幕末になるにつれその有効性が認められるようになりました。それは、正しい知識や技術を持つ西洋医を育て、みだりに技術や薬を使用する不届き者を統制しなければならないほどだったようです。福岡藩の医学校・賛生館はそうした機能を担うべく誕生しました。賛生館は明治維新後も引き継がれ、福岡における医学教育の近代化に大きな役割を果たしました。本章では、賛生館の構想を練り、責任者となった椋亭の足跡をたどりつつ、幕末福岡藩における医事の一端をご紹介します。
44. 接痘瑣言并手痘告諭ノ後ニ書ス
武谷水城 大正元年(1912)8月
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
椋亭の養子・水城は、牛痘告諭の出版経緯を以下のようにまとめている。福岡藩内の人びとは種痘を嫌忌し、元立・椋亭は種痘を進める上で大いに苦労した。そこで嘉永2(1849)年、椋亭はすでに執筆していた種痘書を、九州の地誌を編集した『太宰管内志』の著者で国学者の伊藤常足に添削を乞い、平易な文章にあらためて『牛痘告諭』として出版した。椋亭はそれを藩庁に献納し、群奉行を通じて藩内に頒布された。
45. 〔写〕
御目見医師武谷元立 嘉永3年(1850)戌3月
九州大学附属図書館所蔵
元立が郡役所に宛てた息子・椋亭の推薦状と思われる。福岡藩は江藤貫山、安田仲元を小児御救として藩の種痘事業を統括させ、各地の医師に協力を要請した。御目見医師(藩医に取り立てられた民間の医師)かつ遠賀郡頭取医でもあった元立は種痘普及にも関わり、息子・椋亭を種痘医に推挙した。種痘所までの往来や接種後に免疫がつくまでの滞在に費用がかかることから、貧困者は種痘を嫌がったため、元立は椋亭を派遣し種痘を行わせようとした。
46. 覚
武谷椋亭(江戸期)8月
九州大学附属図書館所蔵
本資料は、椋亭が同勤の者(同じ蘭方医)の雇用を願う上申書である。すでに匙医となっていた椋亭は、殿様や家族等の病症や病因は本道(内科)の医師らと協議できるものの、薬剤の処方等に関しては「不案内」であるため難しいとする。そのため、昨春から同門の功者を一名雇用して欲しいと願い出ていたが、いまだ音沙汰がなかったため、あらためて催促した。蘭方医として匙医に抜擢を受けたものの、いわゆる「漢方」で格上かつ主流の医師らへの気づかいが見られ、椋亭の気苦労がしのばれる。
47. 〔口上手控〕
〔武谷椋亭〕安政5年(1858)カ
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
宛先が不明であるが、椋亭は娘の病状を伝え、手紙を通じて診断およびポンペ(Pompe van Meerdervoort)との相談を求める内容である。コレラ流行に際し効果のあった、先方の対処経験や治療法の伝受に謝辞を述べている。宛先は幕府の海軍伝習所でオランダ軍医のポンペに医学を学んでいた松本良順の可能性が高いと思われる。
48. 〔書控〕
〔武谷椋亭〕明治期
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像】
本資料は、椋亭が藩庁に対して西洋医薬の規制を求めた意見書か。西洋医学を修めた者でなければ西洋医薬の適切な処方は難しいこと、西洋医でもない者や通常の薬店までもが真贋の不確かな西洋医薬を取り扱うほど、西洋医薬がもてはやされていることがわかる。
49. 賛生館御沙汰書写
医術引立請持 慶応4年(1868)辰9月
九州大学記録資料館法制資料部門所蔵 Kj 18-S-174 【精細画像】
本資料は、藩庁が賛生館に命じた国内における売薬取締規則である。無許可による旅薬(他藩からの行商)の禁止、真贋の不確かな偽薬の販売禁止、売薬組員に問題報告を義務づけるとともに、賛生館が売買に関する不正の取締りや業者間の紛争の調停、薬の新規販売や認可等を担うとされた。賛生館が単なる医学校ではなく、医薬行政を統括する機能を担っていたことがわかる。
50. 覚
医術引立受持 不明
九州大学附属図書館所蔵
本資料は「医術引立受持」から藩庁に提出された、医学館(賛生館)の人材登用に関する意見書と考えられる。「国辱」にも関わる問題であるから、より適切な人物を選ぶため、「郡町医」の中から「学術相進ミ居」る者を選ぶ仕組みを立てることを要求している。また、この仕組みの狙いは、すぐれた郡町医を抜擢することで、「富貴利達」を望む人情を利用し、官医はもちろん郡町の医師たちも奮起することにもあったようである。
51. 『本草綱目』
明・李時珍 撰
九州大学中央図書館所蔵 廣瀬文庫841/ホ/1 【精細画像 序・目録】
中国の代表的本草書の和刻本で、賛生館の旧蔵書。福岡藩や藩校修猷館の蔵書の多くは、廃藩時に県庁に納入された後、明治6年(1873)4月に売却された。本書に、「明治六年四月廿三日 御拂下拜借」と墨書されていることから、賛生館の蔵書も同じ時に売却されたことが分かる。なお、九州大学病院キャンパスの医学図書館等にも賛生館の蔵書の一部が伝わっている。