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第三章 福岡藩主黒田家と洪庵・椋亭
洪庵と椋亭の関係は、福岡藩主黒田家を介しても継続しました。洪庵は黒田家の「御出入医」(福沢諭吉『福翁自伝』)として、藩主が大坂の蔵屋敷に逗留する際に診療を行いました。椋亭は種痘普及の活躍が藩主・長溥(ながひろ)の目にとまり、安政2年(1855)に御城代組医兼製煉方御用、翌年には藩医御匙役に抜擢されました。藩主の参勤交代等に随行し、 安政4年(1857)および文久元年(1861)には、洪庵と再会を果たしています。文久2年(1862)4月、江戸に向かう長溥一行は、急行してきた洪庵と大蔵谷(現明石市)で出会いました。洪庵は京都に不穏な動向ありとの情報をもたらし、江戸行きは取りやめになりました(緒方洪庵「壬戌旅行日記」、武谷椋亭『南柯一夢』)。
薩摩の島津重豪(しげひで)の第九子で、いわゆる「蘭僻(らんぺき)大名」の長溥の下、西洋文物の購入に携わっていた椋亭は、洪庵から蘭書の入手を依頼されることもありました。また藩内の優秀者を長溥に推薦し、適塾に遊学させています。末弟の原田水仙もその一人です。原田は椋亭の建言により慶応2年(1866)に設立された医学校・賛生館の西洋医教員に登用され、督学として運営に当たる椋亭とともに、福岡の医学教育に尽力しました。椋亭の人材育成支援は藩内に止まらず、慶応2年に長崎精得館からオランダに帰国するボードインに随行する緒方惟準(洪庵次男)と松本銈太郎(けいたろう)(洪庵後任の西洋医学所頭取・良順長子)に対し、長溥に請願して餞別金を贈っています。
29. 『福翁自伝』28版
福沢諭吉口述 時事新報社編輯・発行
明治44年(1911) 原書:明治32年(1899)
九州大学附属図書館所蔵 檜垣文庫/52/Fu 14-12 【精細画像】
明治30年(1897)、福沢諭吉が速記者を前に60年の生涯を口述し、速記文に全面加筆した自伝。適塾時代も具体的な逸話を豊富に交え、塾生の実態を活写する。そのなかに、「黒田家の御出入医(おでいりい)」となっていた洪庵を通じて、福岡藩主の同家の蔵書「ワンダーベルト」という物理書を拝借し、塾生と手分けして「昼夜の別なく(中略)二夜三日」で書写した逸話も残る。
30. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 文久元年(1861)12月12日付
武谷峻一氏旧蔵(シーボルト記念館寄託)
文久元年(1861)3月、福岡藩主・黒田長溥は江戸から国元への帰路、大坂に立ち寄り洪庵と対面し牡蠣を賞味した。帰国後の5月、口眼がゆがむ症状が出て、椋亭はアルコール中毒が原因と診断し禁酒を言上し、長溥は老年まで禁酒を貫いた(『南柯一夢』)。洪庵も御出入医として、長溥の病状の原因をリウマチ毒と多血と推察し、椋亭に伝えたのがこの書状である。
31. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 文久2年(1862)4月13日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
文久2年(1862)、福岡藩主・黒田長溥は江戸への参勤途上、洪庵に伏見で参会するよう命じた。しかし洪庵は京都の情勢不安を伝えるため、大蔵谷(明石市)での面会を求め、橋本屋という宿で待ち構える旨、本書状にしたためた。藩主一行は同日午後4時に到着して接触を果たし、2日後には引き返して難を逃れた(緒方洪庵「壬戌旅行日記」、武谷椋亭『南柯一夢』)。
32. 「壬戌旅行日記」
緒方洪庵(自筆) 文久2年(1862)
大阪大学適塾記念センター所蔵 I-4-67(緒方富雄氏旧蔵) 【所蔵情報】
文久2年(1862)、洪庵が母の米寿祝いで郷里の足守(岡山市)へ戻り、中国・四国をめぐった旅行の記録。4月11日に大坂を出帆し、翌日に大蔵谷(明石市)に到着して橋本屋に入った。13日に同所に到着した福岡藩主一行と接触、14日には姫路へ向かった。藩主一行は上方からの薩摩藩の使者の情報も得て、15日に引き返したことまで、洪庵は書き留めている。
33. 『南柯一夢』地の巻
武谷椋亭著 明治26年(1893)
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
武谷椋亭の自伝第2巻で、明治以前の福岡藩での活動を書き記す。医療・理化学機器の購入、製煉所での肝油・サントニネの製造、藩医学校賛生館の設立・運営等、充実ぶりが特筆される。展示箇所は文久2年(1862)4月の大蔵谷引き返し事件の顛末を伝える。ここから、洪庵が詳細な情報をもたらしたほか、京都で「義挙」を画策する尊王攘夷派の平野国臣が入京阻止を図り、薩摩藩の使者と偽って京都の危急を告げるという、混迷した世相がうかがえる。
34. 「緒方洪庵 適々斎塾 姓名録」
天保15~元治元年(1844-64)
日本学士院所蔵
(【原本マイクロ画像】【複製所蔵情報】)
「姓名録」は、適塾の入門者の署名帳である。安政4年(1857)9月29日、筑前国(福岡県)から藤野良泰・塚本道甫・原田水山の3人が同時入門した。彼らは椋亭の推薦により福岡藩から派遣された者たちで、原田は椋亭の末弟に当たる。前年の8月20日にも篠田正貞・青木道琢・有吉文郁が同様に入門し、「姓名録」に署名している。
35. 塚本道甫宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 万延元年(1860)12月15日付
適塾記念センター所蔵 I-11-43(武谷止孝氏旧蔵) 【所蔵情報】
洪庵が道甫に購入を依頼した『ペレイラ薬性論』と「ネーデルドイッセアポテーキ」(『和蘭薬局方』)が到着したことへの礼状。支払いを急ぐようであれば、国元の椋亭に相談するよう伝えている。道甫は当時、福岡藩から長崎へ医学伝習に派遣され精得館に在籍し、猶々書に「豚児御同塾」とあり、同窓となった洪庵の次男・平三(のちの惟準)が厄介になると謝している。
36. 長与専斎宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 万延元年(1860)
適塾記念センター所蔵 Ⅱ-2-2(緒方医学化学研究所旧蔵・長与又郎原蔵) 【所蔵情報】
安政6年(1859)12月、適塾を退塾した専斎は、洪庵の勧めにより翌年正月から長崎で医学修行を始めた。書状では、福岡藩主黒田長溥が入手した「ヲールデンブック」(辞典)が良書と聞き、書名が不明なため同藩の塚本道甫や有吉文郁に問い合わせて購入するよう依頼されている。洪庵が蘭書を収集する際に、福岡藩所属の門下生人脈に依拠していることが分かる。
解説3:洪庵の蘭書入手と福岡藩の門下生
蘭方医の洪庵にとって、定期的な蘭書の入手は常に最新の情報を更新していく上で不可欠なものでした。当然ながら蘭書は長崎から移入されるため、福岡にいる椋亭や、長崎に出向くこともある塚本道甫・有吉文郁といった適塾出身の福岡藩関係者を頼らない手はありませんでした。
実際、椋亭は藩の西洋文物の購入を担っていたこともあり、情報網も含め心強い存在でした。洪庵はたびたび椋亭はじめ適塾出身者に蘭書の購入を依頼しています(【38】 。「シケイキュンデ」は『化学概論』、「アルチェネイ・メングキュンヂヘ・シケイキュンデ」は『薬剤混和化学』、「マテリアメヂカ」は『薬性論』)。さらには代金の支払いについても、洪庵が椋亭に立て替えを求めたように【37】 、椋亭に大きく依存していました。そのあたりにも二人の強固な信頼関係がうかがえます。
37. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政6年(1859)12月14日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
38. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 万延元年(1860)5月3日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
解説4:武谷椋亭の聴診器
聴診器は1816年、フランスの医師ラエンネックが発明しました。日本には嘉永2年(1849)、佐賀藩の依頼を受けたオランダ商館医モーニッケが、牛痘苗とともに初めてもたらしました。入手時期は不明ですが、椋亭も聴診器を所持していたことが、椋亭宛の洪庵書状【44】から判明します。そこには、①椋亭の「ステトスコップ(聴管)」(聴診器)を拝見したこと、②その後、モストの著書で調べたところ、「円片」(患者に当てる部分)の詳細が判明したこと、③診察方法に「豪斯鳩爾答質(アウスキュルタチ)」(聴診)と「百爾屈失(ペルキュシー)」(打診)の2種があること、④この2つの診察方法は『扶氏経験遺訓』の附録で紹介すること、⑤聴診器を頂戴したいことが書かれています。
39. 武谷家伝来のオランダ製聴診器
武谷峻一氏旧蔵(シーボルト記念館寄託)
40. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 万延元年(1860)正月21日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
41. ボードイン〔生理学講義ノート〕
ボードイン 安政5年(1858)
適塾記念センター所蔵 Ⅰ-4-157(緒方富雄氏旧蔵) 【所蔵情報】
オランダ陸軍軍医ボードインが作製した生理学講義ノート。見返しに緒方惟準の筆で、ボードイン自筆の講義本で、記念のために保存する旨が、1858年の年紀とともに記されている。惟準はこの年から長崎でボードイン等に学んでおり、その際に譲り受けたものと思われる。
42. 『医譚』第17号
杏林温故会 昭和19年(1944)
適塾記念センター所蔵
【国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信参加館内)】
本号掲載の緒方銈次郎「東京に在りし適々斎塾」の図版として、口絵に「東京適塾ニ於ケル大阪適塾出身者ノ集合記念撮影(明治九年六月十日)」が収録されている。東京適塾は銈次郎の父・惟準が明治5年(1872)に神田駿河台に開いた塾(敷地は現在の明治大学)。口絵は洪庵14回忌に際して開かれた、第2回懐旧会の集合写真で、伊藤慎蔵の孫から緒方家に寄贈されたもの。中央は当時在京中の八重(洪庵妻)。福沢諭吉は中座したため写っていない。
43. 『南柯一夢』人の巻
武谷椋亭著 明治26年(1893)
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
武谷椋亭の自伝第3巻で、明治元年(1868)から亡くなる前年の同26年までを記す。廃藩置県後に前藩主の侍医として上京し1年間勤めた後、自由の身となり、名所遊歴、一族間の出来事、郷里での諸行事が描かれる。展示箇所は明治20年、同年に逝去した黒田長溥の伝記編纂のために上京した場面である。椋亭は途上、大阪で緒方惟準、沼津で深沢雄甫といった適塾関係者と旧交を温めている。