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第二章 蘭書・訳書と洪庵・椋亭
嘉永元年(1848)に退塾した椋亭に対し、洪庵は自著を刊行するたびに献本していました。蘭医学者としての洪庵最大の業績である『扶氏経験遺訓』(1857~61)は、フーフェラントの『エンキリディオン・メディクム』(1836)の蘭訳本2冊・全926頁をおよそ20年がかりで翻訳したもので、全30冊にも及ぶ大著です。安政4年(1857)に初帙と薬方編を献本したのを皮切りに、現存する椋亭宛ての洪庵書状から判明する限り、第7帙までを贈っています。
一方の椋亭は、「適々斎塾姓名録」に16番目に署名する初期の塾生であり、わずか10歳差の師の仕事に対しても批判精神を忘れず、健全な師弟関係が続いていました。安政5年(1858)、長崎から大坂を経由して江戸にまでコレラが大流行した際、洪庵は手許の蘭書を参照し、わずか 5, 6 日で『虎狼痢治準』を完成させ、すぐに椋亭へ贈りました。しかし椋亭は同門の箕作秋坪に「余りに粗漏でメース(先生)の名を損ず」と書き送り、洪庵には「虎狼」の仮字が不適切だと伝えています。それに対し洪庵は自らの非を認め、12月に改訂版 を刊行しました。粗漏さは、治療に当たりながら不眠不休で執筆したことと、当時はポンペの説によって高騰したキニーネに頼らない対処法を追求したことに起因するようです。
17. 『扶氏経験遺訓』
C.W.フーフェラント原著 H.H.ハーヘマンJr.蘭訳 緒方洪庵重訳
安政4~文久元年(1857-61)
大阪大学附属図書館所蔵(IV-1-42)【精細画像】 九州大学医学図書館所蔵(和漢古医書/フ-14-1)【精細画像】
フーフェラントのEnchiridion medicum,oder Anletung zur medizinischen Praxis(『医学必携、臨床入門』1833年)の第2版(1836年)のハーヘマンJr.による1838年のオランダ語訳を、緒方洪庵が義弟・緒方郁蔵らの協力により重訳したもの。天保13年(1842)に翻訳に着手してから約20年、文久元年(1861)に全30巻の出版を終えた。
医師の倫理や行動規範について書かれた巻末部分は、別途訳出され『扶氏医戒之略』としてまとめられた。杉田成卿による『医戒』とともに以降の医師たちの倫理指針として大きな影響を与えたとされる。
なお、九大本は九州大学初代眼科教授の大西克知(1865-1932)旧蔵で、大西の祖父宗節は洪庵と同じ中天游(1783-1835)の門下である。
18. 『扶氏医戒之略』
緒方洪庵抄訳 安政4年(1857)
適塾記念センター所蔵 Ⅰ-15-12(緒方惟之氏旧蔵) 【所蔵情報】
19. 『医戒』
C.W.フーフェラント原著 杉田信成卿訳
文久元年(1861)
九州大学医学図書館所蔵(和漢古医書/イ-147) 【精細画像】
解説1:『扶氏経験遺訓』の刊行と寄贈
洪庵の大著『扶氏経験遺訓』は安政4年(1857)から文久元年(1861)にかけて、数巻を帙でまとめて段階的に刊行されました。洪庵は刊行のたびに椋亭に寄贈していることが、椋亭宛の洪庵書状に書かれてあり、刊行状況を把握することができます。
まず初帙(巻1~3)と薬方編(上・下)が出版され【20】、安政5年に第二(巻4~7)・第三帙(巻8~11)【21】、同6年に第四帙(巻12~17)【22】と第五帙(巻18~20)【23】、万延元年(1860)に第六(巻21~23)・第七帙(巻24~25)【24】と順次贈られています。
最後の附録(上・中・下)は、書状から椋亭に献本した事実はうかがえませんが、前年10月の刊行間もなくなされている可能性が高いと思われます。例えば第二・三帙は、椋亭に贈ると同時に、福岡藩主に別製本で献上しています【21】。附録の福岡藩主への献上も椋亭を介してなされていることが、洪庵の「壬戌旅行日記」文久2年4月13日条(本展第3章で展示)に確認できます。椋亭本人に献本せず、藩主への献上分を預けるとは、常識的に考えがたいからです。
なお洪庵は椋亭に対し、青木・篠田への献本も委託しています【21・23・24】。青木道琢と篠田真貞のことで、いずれも椋亭の推薦で福岡藩から適塾に留学した人物です。
20. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政4年(1857)12月20日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
21. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政4年(1857)10月15日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
22. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政6年(1859)6月27日付
武谷峻一氏旧蔵(シーボルト記念館寄託)
23. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政6年(1859)9月12日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
24. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 万延元年(1860)5月3日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
25. 『虎狼痢治準』初版
緒方洪庵 安政5年(1858)
適塾記念センター所蔵 I-4-22(緒方富雄氏旧蔵) 【精細画像】
安政5年8月に大坂でコレラが猛威をふるうなか、9月に限定100部で緊急出版したコレラの治療書。モスト、カンスタット、コンラジの蘭訳本を参照し、5~6日でまとめ、知人や門人の医者に無償配布した。当時はキニーネを治療薬とするポンペ説が流布し、キニーネがなければ医者は匙を投げる状況に対し、カンスタット説を基礎に自説を交えた治療指針を示した。
26. 『虎狼痢治準』改訂版
緒方洪庵 安政5年(1858)
適塾記念センター所蔵 Ⅰ-4-23(緒方富雄氏旧蔵) 【精細画像】
同書初版出版後の安政5年(1858)11月、長崎でポンペに当時師事していた松本良順から抗議の手紙が届いた。内容は、キニーネを賞用するのはウンデルリヒの説であり、ポンペ批判は不当とするものであった。これに対し洪庵は12月、良順の手紙を引用し謝罪文を載せた「追加」を補訂した改訂版を刊行した。これとは別に、「虎狼」の仮字が不適当だと指摘した椋亭に対し、初丁一枚を刷り直したものを送っている。なお、本書は九州大学初代耳鼻咽喉科教授の久保猪之吉(1874-1939)旧蔵書である。
解説2:「虎狼痢」の仮名をめぐる洪庵と椋亭
安政5年(1858)8月、コレラが猖獗を極めるなか、洪庵は不眠不休で治療に当たりつつ、『虎狼痢治準』を同月17日から5、6日でまとめました。翌月上旬、「百部絶板不許売買」として出版し、知人・門人に配布しています。椋亭にもいち早く届けられましたが、椋亭から「虎狼ノ字コロリの仮字に合わず」と批判する声が伝えられたようで、これを受けて洪庵は初丁一紙を修正したものを送っているようです【27】 。さらにその後も椋亭から批判があったようで、「虎狼痢治準分注の御説、ごもっとも至極」と全面的に受け入れています【28】。ここで注目すべきは、たとえ師であろうとも問題点は率直に指摘する椋亭と、その指摘を率直に受け止めて自身の誤りを認める洪庵の、真摯な学問的態度です。二人は科学的に健全な関係で結ばれていたことが確認されます。
27. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政5年(1858)10月15日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)
28. 武谷椋亭宛緒方洪庵書状
緒方洪庵 安政5年(1858)12月24日付
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)