武谷椋亭生誕200年記念 大阪大学・九州大学巡回展「緒方洪庵と武谷椋亭」

緒方洪庵と武谷椋亭


このページは、武谷椋亭生誕200年記念 大阪大学・九州大学巡回展「緒方洪庵と武谷椋亭」(大阪会場:令和2年11月17日(火)~29日(日)、九州会場:令和4年4月開催予定)を電子展示として再構成したものです。

 監修:大阪大学適塾記念センター 准教授 松永和浩、九州大学大学文書館 准教授 赤司友徳
 共催:大阪大学適塾記念センター、適塾記念会、大阪大学総合学術博物館、九州大学医学歴史館、九州大学附属図書館、九州大学大学文書館
 協賛:九州大学医学部同窓会
 協力:福岡県立図書館、福岡市博物館市史編さん室

ごあいさつ

緒方洪庵(1810-63)は種痘事業やコレラ対策、訳書『扶氏経験遺訓』の刊行等により、日本の近代医学に大きな足跡を残しています。洪庵が天保9年(1838)に大坂で開いた適塾からは、大鳥圭介・大村益次郎・橋本左内・福沢諭吉・長与専斎といった日本の近代化に貢献する人物や、地域医療の確立に尽力した人材が多数輩出されました。今から約200年前の文政3年(1820)に誕生し、福岡の近代医学の基礎を築いた武谷祐之(ゆうし)(椋亭(りょうてい))(1820-94)もその一人です。 椋亭は筑前国鞍手郡高野村(現 宮若市)の医師で、シーボルトに師事して福岡藩蘭学の先達と仰がれた父・元立(げんりゅう)のもと、西洋医学を志します。天保7年(1836)から日田の咸宜園(現 日田市)で学んだ後、同14年(1843)に大坂に出て緒方洪庵の適塾(現 大阪市)に入門しました。適塾在塾時には解剖の見学・執刀や種痘(天然痘予防)の研究に従事し、帰郷後は種痘の普及に尽力します。この活躍により藩主・黒田長溥(ながひろ)に登用され、黒田家「御出入医」であった洪庵との交流も続きました。慶応3年(1867)には藩医学校・賛生館の督学としてその経営を担い、その後も子弟の教育に従事しました。
適塾と賛生館はそれぞれ、大阪大学・九州大学(医学部)の歴史に深く関わっています。 本展覧会では、適塾および九州大学を会場に、生誕200年を記念して、洪庵と椋亭との関係を紹介します。

                              九州大学医学研究院長 大阪大学適塾記念センター長
                              九州大学医学部同窓会長 適塾記念会長
                              九州大学附属図書館長・大学文書館長 大阪大学総合学術博物館長
                                                            (順不同)


第一章 解剖・種痘と洪庵・椋亭

日本における人体解剖の歴史は、宝暦4年(1754)の山脇東洋に始まります。その後、明和8年(1771)、杉田玄白らが江戸・骨ケ原で解剖をおこない、『解体新書』に結実させ、蘭学の道を切り開きました。天保12年(1841)にはシーボルトの薫陶を受けた武谷元立・百武万里が博多でも解剖を実施しました。元立の息子・椋亭は書記として立ち会い「解剖分担表」を残しています。洪庵も毎年2回、大坂町奉行所の許可を得て、門下生を連れて葭島で解剖を行いました。天保14年(1843)に適塾に入門した椋亭は、ある年に執刀を経験しています。制約が多かった当時において、彼らは科学的見地から近代医学の基礎を築いていきました。
ワクチン治療の原点となる種痘も、当時最新の科学的医療でした。1798年にイギリスのジェンナーが開発した牛痘種痘法の情報は、19世紀初頭には日本にも伝わりました。洪庵はドイツ人医師フーフェラント等から知識を得て、門下生にもたびたび種痘の「鎖言」を訳述しました。嘉永2年(1849)6月、オランダ商館医モーニッケにより牛痘苗(ワクチン)が日本にもたらされると、洪庵は11月に大坂に除痘館を設立しました。椋亭は翌年、郷里で「牛痘告諭」を自費出版し、種痘の普及に努めました。新技術に人々はあらぬ誤解を抱くなど、相当な苦労があったようで、その一端は洪庵自筆の「除痘館記録」に窺うことができます。

1. 緒方洪庵肖像

南譲画 篠崎小竹賛 嘉永3年(1850)
適塾記念センター所蔵(緒方裁吉氏旧蔵)

緒方洪庵肖像

緒方洪庵40歳のときの肖像で、蘭書を読む姿を描いたもの。賛文には、武士の家に生まれ成長したが、武をあきらめて文の道にすすみ、漢学を経て蘭学の道に入ったことが記されている。賛は篠崎小竹(1781-1851)による。小竹は詩文に秀でた人物で、大坂土佐堀白子町の私塾・梅花社で多くの門人を教え、洪庵と親交があった。


2. 武谷椋亭肖像

年未詳
武谷道彦氏所蔵(九州大学文書館提供)

武谷椋亭肖像

武谷椋亭は諱(いみな)は祐之(ゆうし)、号は澧(れい)蘭(らん)・鷗洲。筑前国鞍手(くらて)郡高野村(現・宮若市)の医師・武谷元立の子として生まれ、日田の咸宜(かんぎ)園(えん)、大坂の適塾で学んだ。郷里では牛痘の普及に尽力し、藩主の黒田長溥(ながひろ)に取り立てられ藩医となり、慶応2年(1866)に設立された藩の医学校・賛生館の督学として運営を担った。師の広瀬淡窓・緒方洪庵のほか、宇田川興斎・戸塚静海・高野長英・川本幸民・長与専斎等、当時の医学・理化学分野の知識人たちと交流を持った。


3. 『蔵志』

山脇東洋 1968年復刻版 原本:宝暦9年(1759)
大阪大学附属図書館所蔵 【所蔵情報

蔵志

宝暦4年(1754)閏2月、京都六角獄舎前において行われた刑屍体の解剖(観臓)記録に、小論文および注釈を加えたもの。京都の医師・山脇東洋(1705-62)は、中国古典や西洋解剖書を読み進めるうち、五臓六腑説に疑問を抱くようになり、講究すること十数年、ついに刑屍体の払い下げを受け解剖を行うに至ったという。なお、宝暦4年の観臓は、官許を得た解剖としては日本初であった。


4. 『解体新書』

杉田玄白訳 中川淳庵校 石川玄常参 桂川甫周閲 安永3年(1774)
九州大学医学図書館所蔵(和漢古医書/カ-1) 【精細画像 序圖

解体新書

杉田玄白・前野良沢らは、明和8年(1771)江戸小塚原における女体腑分け見学に際し『ターヘル・アナトミア』の正確さに感銘を受け、以後3年の歳月をかけて、ドイツの解剖学者ヨハン・アダム・クルムスのAnatomische Tabellen(『解剖学表』1732年)のオランダ語訳Ontleedkundige Tafelen(『解剖学表』1734年、いわゆる「ターヘル・アナトミア」)を漢訳した。


5. 『重訂解体新書銅版全図』

杉田玄白訳 大槻玄沢校訂 文政9年(1826)
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像

重訂解体新書銅版全図

『解体新書』を杉田玄白の弟子・大槻玄沢が訳し直した『重訂解体新書』に添えられた銅版画による解剖図で、武谷元立(椋亭父)旧蔵。特製の木箱に収められ、本来和綴じだが、図版部分を切り取り、折帖に仕立て直されており、図版の順番も変更されているなど、使いやすように工夫が施されている。次の解剖分担表によれば、元立が按図(解剖結果と医書の解剖図を比較する役目)を務めていることから、その際に利用された解剖図である可能性がある。


6. 解剖分担表

天保12年(1841)
武谷峻一氏旧蔵(シーボルト記念館寄託)

解剖分担表

天保12年(1841)、福岡では初となる人体解剖が行われた際の分担表。本刀は百武万里、医書の解剖図と比較する按図は武谷元立(椋亭父)、書記は有吉周平と椋亭が務めた。万里・元立・周平は文政10年(1827)から長崎のシーボルトに師事した、福岡藩内でも有数の進歩的医師。解剖は藩の許可を得たものだったが、残酷で不仁であるとの批判が広がった。それでも万里は名声にこだわらず医業を続け、元立は後進の育成に努め福岡蘭学の先達と評された。


7. 百武万里伝

武谷水城 明治44年(1911)
九州大学附属図書館所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像

百武万里伝

椋亭の養子・水城(1853-1939)は金沢医学校から陸軍軍医学校を経て、軍医となった。日清戦争や日露戦争に従軍し、のち陸軍軍医監をつとめた。また森鴎外と親交があったことでも知られる。軍を退いた後は郷里・福岡に戻り、明治36年(1903)「筑紫史談会」を創設、会誌『筑紫史談』を発行するなど郷土史研究に没頭した。本資料は、百武万里の事績を称えたもので、福岡初の人体解剖を行った様子などが詳しく紹介されている。


8. 「緒方洪庵 適々斎塾 姓名録」

天保15~元治元年(1844-64)
日本学士院所蔵
(【原本マイクロ画像】【複製所蔵情報】)

緒方洪庵 適々斎塾 姓名録

「姓名録」は、適塾の入門者の署名帳である。天保14年(1843)入門の椋亭は改名前の祐之の名で、16番目に署名している。出身地・姓名に加え、入塾年月日が記載されるようになるのは弘化3年(1846)5月以降で、椋亭の詳細な入塾日は不明である。椋亭は適塾が瓦町にあった時代の初期の塾生で、なおかつ弘化2年の過書町移転後も在塾した貴重な存在である。


9. 『南柯一夢』天の巻

武谷椋亭著 明治26年(1893)
武谷道彦氏所蔵(福岡県立図書館寄託武谷文庫)

『南柯一夢』天の巻

本書は武谷椋亭の自伝で、天・地・人の3巻からなる。天の巻は生い立ちから安政元年(1854)に福岡藩主・黒田長溥(ながひろ)に登用されるまでを述べる。展示箇所の右丁には瓦町の洪庵に師事したこと、左丁には洪庵が塾生を連れ毎年5・10月の2回実施した葭島の刑場での解剖の具体的様子が描かれており、貴重な情報を伝えてくれている。


10. 『魯西亜(ろしあ)牛痘全書』

馬場佐十郎訳 利光仙庵校 1978年複製版 原本:嘉永3年(1850)
大阪大学附属図書館所蔵 【所蔵情報

魯西亜牛痘全書

阿蘭陀(おらんだ)通詞(つうじ)・馬場佐十郎(1787-1822)が、ロシア語の種痘書『オスペン・クニーガ』を訳出、文政3年(1820)に『遁花秘訣』と題して刊行した。これは日本最初のジェンナー種痘法の紹介であり、種痘法普及に貢献した。本書は『遁花秘訣』を利光仙庵がさらに改訳し改題して出版したものである。


11. 『幼幼精義』第二輯巻之四

堀内忠龍重訳 弘化2~嘉永元年(1845-48)
九州大学医学図書館所蔵(杏仁醫館文庫/H 889) 【精細画像 巻之4

『幼幼精義』第二輯巻之四

米沢藩医の堀内忠龍(素堂)がフーフェラントの小児科書の蘭訳本を翻訳した、日本初の小児科医学書。第二輯では天然痘とその治療法が記され、箕作(みつくり)阮甫(げんぽ)による序文にはロンドンの牛痘種痘法の実施状況が紹介されている。牛痘苗が日本にもたらされるのは嘉永2年(1849)のことで、洪庵は本書を通じていち早く牛痘種痘の必要性を理解していたとされる。


12. 緒方洪庵和歌短冊「種痘」

緒方洪庵(自筆) 文久2年(1862)頃
大阪大学附属図書館所蔵 【所蔵情報

緒方洪庵和歌短冊「種痘」

文久2年(1862)6月、洪庵は幕府奥医師への就任要請を受諾し、8月に江戸へ赴任した。出立を前に、自分の肖像にこの短冊と同じ歌を記し、大坂除痘館に残した。種痘の継続の願いを込めた歌を、この短冊にしたためたのも、同じ頃であろう。
「種痘」 とし(年)毎に お(生)ひそふのへ(野辺)の こ(小)松原 千代にしけ(繁)れと うゑもかさねん  章


13. 除痘館記録

緒方洪庵(自筆) 万延元年(1860)
大阪大学適塾記念センター所蔵(緒方惟之氏旧蔵) 【所蔵情報

除痘館記録

嘉永2年(1849)11月、洪庵は大坂古手町の借家を種痘所として種痘を始めた。これは、大坂における牛痘種痘の最初である。大坂除痘館は安政5年(1858)には幕府の官許を得て、万延元年(1860)に尼崎町一丁目に移転した。それを機に種痘事業開始の経緯、同志や協力者の存在、啓蒙・普及活動の苦心といった、その間の奮闘ぶりや苦難を回顧したものである。


14. 『接痘瑣言』

武谷祐之(椋亭) 弘化3年(1846)
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像

接痘瑣言

適塾在塾中の椋亭はある日、洪庵から牛痘種痘法の話を聞かされた。これに感化された椋亭が、複数の蘭書から牛痘に関する記述の要領を一冊にまとめたのが本書である。展示箇所にはその執筆の経緯を述べた題言の部分に当たる。椋亭は執筆以前にも、堺の医師・小林安石の種痘実験の情報に接したことが、自伝『南柯一夢』に触れられている。


15. 『天瘡琑言未定稿 譯稿』

武谷祐之(椋亭)重訳
武谷道彦氏所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像

天瘡琑言未定稿 譯稿


16. 『牛痘告諭』

武谷祐之(椋亭) 嘉永3年(1850)
九州大学附属図書館所蔵(九州大学附属図書館寄託武谷文庫) 【精細画像 その他-106 書籍書画類-6

牛痘告諭

嘉永元年(1848)に適塾を退塾して帰郷した椋亭は、翌年に日本にもたらされた牛痘苗(ワクチン)を用い、種痘に携わった。福岡藩では同3年に各郡1名の種痘医を置き、椋亭は鞍手郡の郡種痘医となるが、妄説に惑わされる人々が多かったため、本書を各郡に配布し、疑念の解消に努めた。その結果、博多をはじめ藩内でも種痘が普及するようになった。



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