ヒポクラテス
古代の医学にも様々な流派があったが、ヨーロッパで最も大きな影響を与えたのは、ヒポクラテス(紀元前460年頃〜377年頃)とガレノス(130年頃〜200年頃)並びに、その信奉者たちだった。ヒポクラテスは、超自然的な病因や魔術による療法を排除し、医学を「自然科学」へと導いた。しかし、彼の考えにも思弁的な要素が少なからずみられた。
『ヒポクラテス全集』ジュネーブ、1657年。
ヒポクラテスの誓い
「ヒポクラテスの誓い」は医道を語った千古不朽の名言である。しかし彼の書には、不治の病は治療しないようにという指摘も見られる。
病気にかかるとき万物は火、風、水、地の4元素からなるとしたエンペドクレス(Empedokles, 紀元前490年頃〜430年頃)の説を思わせる体液病理説(humoral pathology)が広まっていた。この説によると体液は栄養摂取による物質代謝の産物で、4原液が正常混合の場合、人間は健康であるが、異常混合になると病気が発生する。環境、生活様式、体質が病因となるのである。病気は3段階に分けられている:
上記の体液論に加え、東洋医学の「気」に類似する「プノイマ」(pneuma)も古代の病理学に大きな影響を与えた。
病名は少ないヒポクラテスは病気の経過についてはかなり詳細な記述を残しているが、病名はほとんど記されていない。ヒポクラテスの関心を引いたのは病気ではなく、病気にかかった患者の方だった。彼は各部位の変化よりも、全体としての身体と主に取り組んでいた。しかし医師たちの知識が増し、診断法が発達すると、さまざまな病名が作らた。 ヒポクラテス医学の源流
ガレノスの影響ギリシア医学の最盛期末、2世紀に医師ガレノスが現れる。彼はギリシア、ペルガモンの出身だが、学業を終えてスミルナ、コリント、エジプトのアレクサンドリアをへ経てローマへ行き、そこで医師、教師、実験者として名声を得た。ガレノスは少なくとも100篇の論文を書いてる。
彼はヒポクラテスの学説を受け継ぎ、他の諸説と共に、総合的な理論体系を組み立てようと試みた。彼の病理学も基本的には体液論に基づくものであった。それはやがて、中世の西洋医学の基盤になったばかりでなく、ルネサンス以後の近代化にも関わらず、19世紀に至るまで医学思想のあらゆる分野で影響を及ぼすことになった。 原液はパレの著作にも見られる。
ガレノスは解剖にひい秀でていたが、その知識は豚や猿、犬に関するものであった。一度は象も解剖している。それでもヒトの解剖学に関する彼の主張は部分的にしか正しくなかった。また、彼は実験や解剖から結論を引き出すだけに留まらず、広範でしべん思弁的な生理学体系を構築した。
身体の中心としての心臓ギリシア・ガレノス流の医学によれば、心臓はいわゆる先天性の温熱(calidum innatum)を持っている。この温熱は4体液を動かし、その活動を維持する。その際に消費する温熱は飲食で補えるが、決して完全ではない。人生の終わりにはこの熱がなくなり、死人は冷たくなる。ヘロフィロス(前300頃ー?)のように、当時すでに、思考の中枢は脳であると唱える人もいたが、一般には、熱を恵む太陽が大宇宙の中心にあるように、心臓が身体という小宇宙の中心器官であるとされていた。キリスト教においては、人間の魂は心臓にあると考えられていた。 近代医学により心臓はただの「血液ポンプ」に過ぎないことがわかっても、西洋には今もって、心臓が人間の中心であったことを示すしぐさが残っている。
![]() Me? Ich? Moi? 私ですか
かつて、あくびは不可解な現象だった。ヨーロッパではこの瞬間に魂が体内から逃げ出すと信じられ、これを防ぐために手を口にあてた。
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