九州大学 > 附属図書館 > サービスメニュー > 電子展示 > 第44回中央図書館貴重文物展観
平成15年度 開学記念中央図書館展示会
昭和28年大水害写真・資料展
門司市(当時)においては、6月上旬および25〜27日の連続降雨により、地盤が緩んでいたところへ、28日には398ミリという記録的な集中豪雨が襲った。28日午前11時過ぎ、市街地背後に連なる風師、戸ノ上山系の山々が次々と山腹崩壊(600余力所)を起こし山津波・土石流となって市街地・港湾に押しよせた。死者・不明者143人、家屋全壊・流失616戸に達し、県下被害の大きな部分を占めた。また、関門国道トンネルには10万uもの濁水が流入し、架線・軌床の復旧作業に3週間を要した。小倉市では、紫川など大小河川の氾濫・堤防決壊により家屋人口の8割が浸水した。
遠賀川水系の各地では、連続降雨量が600mm前後に達した。上流域においては、ボタの流入による河床の上昇、鉱害による堤防の沈下、下流域では水位上昇による氾濫・堤防決壊が多大な被害をもたらした。遠賀川駅水没により鹿児島本線が復旧したのは、7月3日であった。
博多湾に流入する中小河川系(樋井川、十郎川、須恵川、那珂川など)が氾濫し、渡辺通、薬院、明治町、二股瀬、馬出、月見町、警固、城西町、六本松、大濠新町など市内全般に浸水するにいたった。市内の家屋被害は全壊11戸、半壊59戸、床上浸水5,735戸、床下浸水21,900戸におよび、罹災者総数は113,789人に達した。また、郡部においても、多々良川、猪野川等の増水氾濫により田畑の流失冠水、流域の炭鉱坑道への流水などの被害をもたらした。
総延長100余キロ、30余の支川を有する筑後川流域においては、本源小国地区で1000ミリを超え上流部では900ミリ以上、中・下流部で500〜700ミリに達した。26日午前1時には早くも5.5mの警戒水位を突破し、午前5時には危険水位7.6mを超えて、最高9mになった。ついに午後5時20分合川町市ノ上堤防が決壊し、濁流は1〜2mの山をなしてわずか20分くらいで久留米市63km2の8割を泥海と化した。死者5人、家屋の流失409戸、全壊336戸、床上浸水4,880戸、床下浸水9,284戸にのぼり、罹災者総数は82,000人を超え、当時の市人口の66%におよんだ。筑後川最大の氾濫であり、襲来が急激で、上流ではその第1波が夜半であったことにより、被害を増大させ、筑後川水系における罹災者総数は375千人を数えた。
同じく有明海に流入する矢部川も甚大な被害をもたらし、流域における罹災者総数は117千人に達した。
水の都日田は、6月25日から雨足が強くなり26日午前にかけて水魔が荒れ狂った。26日午前2時頃、三隈川の氾濫により銭淵橋が流失、激流は鉄砲水となって走り市街地は流失家屋、木材などで埋めつくされた。死者5人、家屋流失321戸、全半壊480戸、浸水5,170戸におよぶ惨事になった。
祖母・傾、玖珠山系の山間部では、最高雨量900ミリを超え、山地の大崩壊、河岸を削り河身を変更させて田畑流失、道路寸断等により孤立し甚大な被害をもたらした。
また、別府湾にいたる大分川流域でも未曾有の雨量を記録し、大分市・郡部に多大の被害を出した。
背振山系に源を発し有明海にそそぐ嘉瀬川は、中流部では勾配の変化が大きく、下流部では分流・合流して天井川の様相を呈している。城原川、田手川等の氾濫水と合流して佐賀平野は文字通り泥の海と化した。特に、昭和24年水害後の改修工事中であった鍋島村堤防は、26日早朝30mにわたって決壊し同村を水没させた。天井川のため排水は困難をきわめ、約1ヶ月冠水状態であった。
また、唐津湾に流入する松浦川は県下一の地方河川であり、支流域の厳木川水源は最も降雨強度が大きく流域の被害が甚大であった。
阿蘇山に水源を発する白川は、総延長70余キロで肥後平野を貫き熊本市内を流れて有明海にそそぐ。阿蘇周辺の6月下句の連続雨量は1000ミリに達し、火山灰ヨナや山崩れによる土石流をともなって氾濫し、熊本市内は一部高台を除いて全市が浸水した。白川にかかる橋梁17カ所のうち完全に残るものは一つであった。市内を埋めつくした泥土は、240万uとみられ、その排除費は12億円を要すると推定された。死者・不明者537人に達し、県単位で最大の犠牲者を出した。郊外の子飼橋付近では、一時避難所に避難していた40数人が家ごと白川に流された。
このほか、菊池川水系も無堤箇所等から氾濫し大きな被害をもたらした。
参考文献
昭和28年西日本水害調査報告書 土木学会西部支部 1957.2
昭和28年6月福岡県水害誌 福岡県編集・発行 1954.2
昭和28年北九州大水害写真集 1984.3