Kyushu University Medical Library: Collection of Old Medical Books
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エンゲルベルト・ケンペル
Engelbert Kaempfer (1651-1715)


エンゲルベルト・ケンペルは、北ドイツの都市レムゴーの出身で、ロシア、ペルシャ、インド南部、東南アジアへの長い旅を経て、1690年から2年にわたり、出島でオランダ商館医として勤務した。出島では彼付きの使用人であった今村源右衛門の協力を得て、多数の情報や資料の収集を行なった。ケンペルは帰国後、その一部をペルシャに関する論文とともに『廻国奇観』(九州大学附属図書館蔵)というタイトルで出版した。日本に関する本の原稿もほとんど完成していたが、存命中に出版してくれるところを見つけることはできなかった。ケンペルの相続人であった甥のヨハン・ヘルマン・ケンペルは、借金を抱え、やむをえずコレクションの大部分を、のちに「大英博物館の父」と呼ばれるようになる英国人コレクターのハンス・スローンに売却した。彼はスローン家で司書をしていたカスパル・ショイヒツァーにこの原稿の英訳を依頼した。ショイヒツァーは、ケンペルの旅行日記からシャムについて書かれた章と挿し絵を付け加え、『廻国奇観』からもいくつかの重要な論文を翻訳し追加した。こうして『日本誌(History of Japan)』は1727年ロンドンで出版され、大成功を収めた。1729年には第二版が発行され、その後まもなく仏語版と蘭語版が出版された。これまで出回っていた旅行記や、公開書簡集、娯楽性が高く想像力あふれる読み物とは対照的に『日本誌』は、地理、植物誌、動物誌、日本人の起源、歴史、オランダ貿易などのテーマごとにまとめられた、詳細で事実に即した報告であった。ヨーロッパ人から見れば異教である宗教(神道、仏教、儒教)について書かれたものでさえ、驚くほど公平で客観的である。しかしケンペルによる幕府の鎖国政策擁護論はヨーロッパではかなり批判を浴びた。『日本誌』は、1802年に阿蘭陀通詞志筑忠雄によって日本語に抄訳され、このときに「鎖国」という言葉が作り出されたのである。ロンドンで最初に刊行された版はケンペルの名を有名にはしたものの、英語は18世紀のヨーロッパではそれほど大きな力を持っておらず、最も影響力の大きかったのは仏語版である。19世紀初頭まで、『日本誌』は日本についてのスタンダードな文献として定評があった。ケンペルの著作は百科事典の執筆者だけでなく、モンテスキュー、ルソー、ヴォルテール、G. T. レイナル、J. ブルッカー、フォン・ハラー、ベール、ディドロ、シャルルボワ、カント、J. L. カスティルホン、ヘルダーといった哲学者、詩人たちにも大いに活用されていたのである。

医史学的に重要なものは、日本の鍼と灸について体系的に述べられた2つの論文で、これにより西洋人として初めて灸術に関する日本の論文を紹介したのである。最初は1712年出版の『廻国奇観』においてラテン語で発表されたが、その後『日本誌』の英、仏、蘭語版を通してヨーロッパ中で知られるようになり、西洋における東洋医学のイメージに影響を与えた。九州大学附属図書館医学分館には仏語版、蘭語版が収蔵されている。







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