九州大学附属図書館には、ヨーロッパで作成された古地図が所蔵されています。
このなかには世界地図史上に有名なものなど、重要な地図も含まれています。
本ページでは日本図、および地図上で多様な変化をみせた日本の北方地域を含むアジア図をご覧いただきます。

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NO サムネイル タイトル 作者 年代 解説 法量
(縦×横)
備考
1 アジア図 - 1567 この図は作者・作成年代が判然としませんが、内容はオランダの有名な地図製作者A.Ortelius(オルテリウス,1527-98)の「アジア図」(1567)とほぼ同じです。ここにみられる日本は、リスボン生まれの地図製作者B.Velho(ベリュー,1568没)の「世界図」(1561)やOrteliusの「タルタリア」図(1570)などの日本と同じ形状です。すなわち、JAPANとある南北に長い島には、Meaco(都)、Xote(?)、Amanguca(天草)、Bungo(豊後)など九州を含む地名が見られ、その南東にはTONSA(土佐)として四国が、南にはCongaxuma(鹿児島)のある島など3〜4島にわかれた九州が描かれています。16世紀末、L.Teixera(テイセラ)の日本図の出現までは、ヨーロッパ製地図にみる日本は実際とはほど遠い数種類の形状で示されたのですが、この図の形もその一つです。 34.1×37.9 貴重図書(752/A/4)
2 日本諸島図 L.Teixera 1595 ポルトガルの地図製作者L.Teixera(1564頃-1613)の日本図は、オランダのA.Ortelius(オリテリウス)の世界 地図帖・増補版(1595)に第107図として入れられたものです。この図は、ヨーロッパでのそれまでの日本図に 比べて、海岸線の出入、山脈・河川・湖の描写、国名の記載など、形状・内容ともに大きな進歩を見せています。 この図の東西に長い日本の形や東の海に実在しない島々などは、最も古いタイプの日本図である行基図系統の 一つ唐招提寺蔵日本図と同じです。しかし、唐招提寺図では島となっている志摩国が、この図では紀伊半島に 正しく入れられており、また東北北部の海岸線、九州の形、山脈や河川などの描写は、桃山時代の日本図屏風と 同じ特色をみせていて、全体的に屏風図の流れを汲むものとされています。いずれにせよ、この図はBacasa(若狭) 島などの誤りはあるが、17世紀中頃までヨーロッパにおいて影響を与えた地図です。
42.6×54.9
3 日本王国図 P.Mortier 1655 オランダの地図製作者P.Mortier(モルチエ,1724没)のこの図は、M.Martini(マルチニ,1614-61)の 「日本王国図」(1655)を複製出版したものです。Martiniはイエズス会宣教師として1643年からその死 に至るまで中国で布教活動をした人ですが、ヨーロッパに一時帰国した1655年、彼はオランダの地図製 作者J.Blaeu(ブラウ)の世界地図帖のうちの「シナ地図帖」を刊行しました。その第17図が日本図ですが 、そこでは関東〜東北の海岸線は1643年この沖合を北上したオランダ東インド会社のM.Vries(フリース)の 報告に基づいてかなり正確に描かれ、Teixera(テイセラ)図にある実在しない島々はみられません。また、 中部地方や瀬戸内海の海岸線は、東北の海岸で捕えられ、釈放後江戸から長崎を旅したVriesの僚船 ブレスケンス号一行について記したA.Montanus(モンタヌアス)の「日本誌」(1650頃)所収の地図と類似して います。Teixera図よりも正確なMartiniの日本図は、18世紀初め頃までヨーロッパで大きな役割を果たしました。
(九州帝国大学蔵書印;昭22.3.23)
53.8×63.9 貴重図書(752/I/1)
4 新アジア図 N.Visscher 1657 オランダの地図製作者N.Visscher(フィシャ-,1618-79頃)のこの図では、日本とその周辺はBacasa島、細長い九州、島になっている朝鮮半島などTeixera図の影響が見られます。また、日本の北方地域については未だ何も示されていませんが、その北のアジアとアメリカの間に海峡が描かれています。すなわち、突出したアジア北東部とAMERICAE PARS(アメリカ地方)との間には、北のタルタニア海と南のオクシデンタル海を結ぶ海峡があり、それにはAnianという名称が付けられています。この「Anian」は、イタリアのJ.Gastaldi(ガルタルデ)が1561年の地図ではアジアの北方地域に、翌62年の地図では海峡にはじめて使ったといわれるもので、それは彼がMarco Polo(マルコ=ポーロ)の旅行記にあった中国南方の地名からとったものです。もっとも、当時はこの「Anian」海峡はあくまでも想像上の産物であって、アジアとアメリカの関係については、まだ誰も知らなかったのです。 35.1×47.8 貴重図書(752/V/1)
5 68州に区分された
日本帝国図
E.Kaempfer
J.Scheuchzer
1727 E.Kaempfer(ケンペル,1651-1716)はオランダ商館医師として元禄3(1690)年から2年間わが国に滞在、 帰国後持ち帰った資料をもとに著述をはじめましたが、刊行に至らないまま没しました。その後、彼の遺稿などはイギリス人 H.Sloane(スローン)の手に渡り、Sloaneの依頼をうけたJ.Scheuchzer(ショイヒシェル)がそれをまとめ、1727年「日本誌」(2巻) をロンドンで出版しました。その際、Kaempferの資料によってScheuchzerが作成したのがこの日本図ですが、 これは蝦夷や四国を除けば、浮世絵師石川流宣の「大日本図鑑」(延宝6・1678)に拠っています。約1世紀の間 民間に流布した華麗で実用的な流宣の日本図は、そのやや誇張した描写によって、当時の幕府作成の日本図に 比べると正確さでは劣っていましたが、国名その他内容の点では豊富で、その特色を受け継いだこの図は、18世紀の ヨーロッパでも普及することになりました。なお、左上の付図のうち右の図は、本図では松前が島になっている ところなどをScheuchzerが「大日本図鑑」に基づいて渡島半島の形を補訂したものです。左の図には、カムチャツカ 半島と奥蝦夷すなわちサハリン、千島などが一体となったアジア北東部が示されています。このほか、日本製の羅針盤、 わが国から中国各地やオランダなどへの距離表、国・郡・社寺などの数、宗派による数種類の数珠、大黒、恵比寿、歳徳神などが 描かれています。また、版によってはいくつかの家紋を描いたものもあります。
(九州帝国大学図書館蔵書印;昭18.4.30)
48.2×55.3 貴重資料(長沼/111/115)
6 - - - NO.5と同じ系統の版ですが、美しい彩色が施されています。 53.6×62.8 貴重資料(土木/1162/99)
7 シナ・タタール、
朝鮮および日本王国全図
T.Mayer 1749 この図はドイツの地図製作者T.Mayer(マイヤー,1723-62)が、フランスの地図製作者J.B.d'Anville(ダンビル,1697-1782)の 「シナ・タタール図」(1732初版)を複製出版したものです。この図をみると、Kaempfer図と同じ形状の日本の北に大きな「JEDSO-GASIMA」(蝦夷が島) があり、その南部の半島先端は渡島半島の形を示しています。この北には、それとは別に南北方向にのびるもうひとつの陸地がありますが、 その東岸の形はサハリンのアニワ湾付近に類似しています。また、さらにその北、アムール川(黒龍江)河口付近には「く」の字型の「SAGHALIEN」島、 つまりサハリンがあります。これらのうち、アムール川河口の島はアムール川方面から、また南北に長い土地は南から得られたサハリンに関する 知識が、それぞれ別々に示されていますが、この地図は世界の地図史上、最後まで不明な点の多かった地域のひとつであるわが国の北方についての 当時の混乱した知識を表したものと言えるでしょう。
(九州帝国大学図書館蔵書印;昭22.3.23)
54.2×81.7 貴重図書(752/C/1)
8 アジア図 Dezauche 1788 この図はフランスの地図学者G.Delisle(ドリル,1675-1726)とP.Buache(ブアシェ,1700-73)のアジア図をDezauche(ドゾシェ)が補訂出版したものです。ここにみえる北方地域の描写も混乱しています。すなわち、本州北方の小島Matsumai(松前)の北には南北に長い「IESO」島がありますが、この南岸から南東岸は渡島半島から根室半島の海岸線を大体示しているのに対して、東岸にはアニワ湾の形が出ており、北海道とサハリンが一つになってしまっています。また、「IESO」島の北には「く」の字型のサハリンが別に見られます。さらに、「IESO」島の東にはオランダのVries(フリース)の報告による「Etats」島(国の島、クナシリ島)、その東に「Compagnie」の土地(会社〈東インド会社〉の土地)があります。今日のウルップ島にあたるこの「Compagnie」の土地は、この図では東岸を点線で示すという曖昧さはあるものの、一応島として表していますが、18世紀前半にはアメリカ大陸の一部とした地図も多かったのです。そのほかこの図では、カムチャツカから南の千島北部や中部はかなり正確に描かれていますが、ただ「Compagnie」の土地の東に、点線ではありますが「J.de Gama」の土地が見られます。この土地は、1590年北太平洋を航行した船長J.da Gama(ガマ)の話によるものですが、この付近でのその存在については18世紀中頃には疑問視されており、1754年のBuacheの「エゾ島とその周辺」図にも描かれていない。この点Dezaucheの地図は、補訂とは言うものの18世紀末のものとしては内容的に少し後退しています。 54.8×74.8 貴重資料(長沼/111/117)
9 日本辺界略図 P.F.von Siebold 1798 オランダ商館医師として文政6(1823)年から文政12(1829)まで我が国に滞在したP.F.von Siebold(シーボルト,1796-1866)は、帰国後日本に関する多くの著述を行いましたが、なかでも大著「日本」(1832-52)はあまりにも有名です。その「日本」の第1分冊に付けられたのがこの「日本辺界略図」ですが、この原図は彼の帰国に際して起こった事件によって幕府に捕らえられ、獄死するに至った幕府天文方高橋景保が文化6(1809)年に作成したものです。ここに見られる日本の形状は、本州と四国は伊能忠敬の実測調査(九州は未調査)により、北海道、南千島、樺太(サハリン)中部や南部は最上徳内、間宮林蔵その他の人々の調査によっているため、非常に正確に描かれており、特に樺太は明確に島として表現されています。ただ、日本の調査が及んでいない樺太北東部は点線で示されていて、この部分を明らかにしたいという景保の研究意欲が、シーボルト事件へとつながったとも言えます。Sieboldは、もちろん地名などは翻訳していますが、景保の原図をほぼ忠実に再現したのであり、MIAKO(京都)を通る子午線が経度0度になっているのも景保と同じです。もっとも、彼は大陸と樺太との間にStr.Mamia(seto)1808、宗谷岬のところにStr.de la Perouse 1787など若干の地名を補っているが、これによって間宮海峡の存在、すなわちサハリンは島であることが、ヨーロッパに知られるようになったのです。 57.6×81.0 貴重図書(752/P/4)
*略記 長沼:長沼文庫 土木:土木工学科図書
*本ページは、学内研究補助費(P&P.平成13・14年度研究課題「九州大学所蔵の記録史料の活用と
デジタル・アーカイブス構築に関する研究」、研究代表荻野喜弘)により作成したものです。