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九州大学附属図書館企画展
「東西の古医書に見られる身体」−九州大学の資料から−」
平成10年5月11日ー17日

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(X)東へ伝わる西洋医学


ヨーロッパでも敢えて死体を解剖し人体の内部を観察するまでには、長い年月がかかっている。西洋の解剖書は17世紀半ばにはすでに日本に渡って来ており、出島商館医も繰り返し解剖学の重要性を強調していたが、臓器、筋、神経などの位置や特徴よりも、気が流れる身体の中のさまざまなバランスを重んずる東洋医学の影響のもとでは、西洋の解剖図の意義や利用価値は認められなかった。

日本では特に出島蘭館医の外科術が高く評価されていた。そのため、紅毛人はすでに17世紀には長崎と江戸で高官などを往診していた。その治療や口頭による指導をもとに寛永の頃に、いわゆる「紅毛流外科」が誕生した。

ドイツ人外科医カスパル・シャムベルゲル(Caspar Schamberger、1623〜1706)が1650年に10ヶ月にわたり、江戸で幕府高官の治療を行ってから、日本では「オランダの」外科学に対する関心が高まった。50年代に生まれた最初の流派は「カスパル流外科」だった。

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シャムベルゲル晩年の銅版画(ライプツィッヒ市博物館蔵、W. Michel, Von Leipzig nach Japan, Iudicium 1998より)

現存する「紅毛流外科」初期の写本では、解剖学に対する関心はほとんど見られない。病理学も17世紀末までは、伝統的なガレノスの体液論を短く要約しただけだった。日本にはこの体液に該当する概念がなかったため、ラテン語の名称はカタカナで記され、説明も限られていた。




『阿蘭陀外科書』に見られる体液論

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『阿蘭陀外科書』。カスパル流外科系の写本、江戸時代。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)

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膏薬方に見られる用語
阿蘭陀外科書

『阿蘭陀口和書』写本、江戸時代。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)




写本に見られる「紅毛人」


『紅毛流外科秘要』写本、江戸時代。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)
阿蘭陀外科書



ヴェスリング著「解剖学書」

ヨーハン・ヴェスリング(Johann Vesling、1598-1649)はドイツ生まれの解剖学者。初版は1633年のラテン語版で、1659年にブラジウス(G. Blasius)の注釈を加えたものがアムステルダムで出版され、同年オランダ語版も出ている。本書は17世紀後半に最も普及した解剖書で、明解な記述と鮮明な図版で知られている。ヴェスリングはわが国ではヘスリンギウス(Veslingius)と呼ばれ、山脇東洋がわが国最初の人体解剖に方り図を参照し、また尿生成について独創的な実験を行った伏屋素狄も本書を利用している。ヴェスリングは1632年以降パドア大学の解剖学と植物学の教授となり、その名講義で知られた。

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『解剖学の体系』パドゥア、1651年。Veslingius, Joannes: Syntagna anatomicum. 2. ed. ab extrema auctoris manu Patavii Typis Pauli Frambotti, 1651. p.35, 150 x 200mm.(九州大学附属図書館医学部分館蔵)




「実験」への道を切り開いた山脇東洋

解剖への道を切り開いたのは中国の古典に矛盾を感じ、それを解消しようとした古医方派の山脇東洋(1705−1762)であった。宝暦4年(1754)に官許を得た山脇東洋らは京都で「腑分け」を行った。それ以降、日本各地で死体解剖が始まった。原図は東洋の弟子の浅沼佐盈の筆になる。

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山脇東洋『蔵志』宝暦9年(1759)刊。(京都市和田和代史博士蔵。佐藤裕博士撮影)

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蘭学事始

明和8年(1771)に江戸で行われた解剖に西洋の医書を持参した杉田玄白や前野良沢らは西洋の解剖図の正確さに驚き、大変な苦労をしながら、その本を翻訳し『解体新書』として出版した。それをきっかけに本格的な「蘭学」が起こり、西洋医学などは積極的に受容されるようになったのである。




ワルエルダの口絵

『解体新書』に使われたワルエルダの口絵。『解体新書』の扉絵は、ワルエルダのオランダ語の訳本(1568ないし1614年刊のアントワープ版)の口絵からとったものと推測されている。

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ワルエルダの口絵。(九州大学附属図書館医学部分館蔵) 日本で作られた。(九州大学附属図書館医学部分館蔵) 解体新書(九州大学附属図書館医学部分館蔵)

『ヴェザリウスおよびワルエルダの解剖学 ー 人体の各部の図および解説』アムステルダム、1647。 A. Vesalii en Valuerda Anatomie ofte Afbeeldinghe van de Deelen des Menschelicken Lichaems, en derselver verclaringe. Met een Aenwysinghe om het selve te onleden volgens de leringe Galleni, Vesalii, Fallopii en Arantii. 'T Amsterdam, By Corneliz Danckertz, in de Calverstaet in de Danckbaerheyt M.DC.XLVII.





『重訂解体新書』

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『重訂解体新書』銅版全図。天保14年(1818)。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)

『解体新書』に満足しなかった杉田玄白は弟子の大槻玄沢(1757−1827)に改訂を命じた。

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『重訂解体新書』銅版全図。天保14年(1818)。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)

『解体新書』(九州大学附属図書館医学部分館蔵)




晩年の回想録

『蘭学事始』は文化11年(1814)、82歳の杉田玄白が蘭学創始の時代を回想録風にまとめたもの。補筆を依頼された大槻玄澤は、日頃の玄白の話や自分の見聞を織り込み『蘭東事始』として、翌年、玄白に進呈したといわれている。
復刻された『蘭学事始』は、明治2年に福澤諭吉が出版した本版本で、その底本は幕末の頃に神田孝年が発見し、玄白の自筆本はこれが唯一のものと信じられていた。

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杉田玄白著『蘭学事始』2巻、文化12年(1815)脱稿 明治2年(1869)刊行。(九州大学附属図書館蔵)




永田善吉刻『内象銅版図』

永田善吉(1751−1822)の『内象銅版図』は文化5年(1808)に刊行され、日本初の銅版解剖図として医史学のみならず、洋画の作品としても美術史上極めて重要な資料である。宇田川玄眞著『医範提綱』の附図として作られたもので、ステヴェン・ブランカート(Steven Blankaart, 1650−1702)、パルフェィン(J. Palfyn, 1650−1730)、ウインスロウ(J. Winslow,1669−1760)やヘルヘイエン(P. Verheyen,1648−1710)の解剖書の図を基にしている。

日本においては言葉の面での問題が大きく、舶来の西洋書の数も少なく、また、医書を古典化する傾向もあったので、ヨーロッパにおける近代医学のダイナミックな発展は、長い間日本人の目にあまり触れなかった。そのため、原本と訳本との発行年にかなりの年数が開いた場合が多い。

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『内象銅版図』の扉絵。

【参考資料】 Blankaart, Stephen: Anatomia Reformata, Sive Concinna Corporis Humani. Lugduni Batavorum. Apud Cornelium Boutesteyn, Jordaanum Lughtmans. 1687. (個人蔵)




永田善吉刻『内象銅版図』文化5年(1808)(九州大学附属図書館医学部分館蔵)




中国を介して日本へ

日欧文化交流における中国の役割を見過ごしてはならない。幕末には中国語によるの西洋医書が日本の洋医学界に歓迎され、その訓点翻刻本が普及した。その代表的なものとして宣教医として中国へ派遣されたホブソン(Benjamin Hobson, 1816-1873)が著した一連の医書類がある。ホブソン(中国名は合信または霍浦孫)は1847年広東西郊に恵愛医館を開き、医療伝道活動を行いながら『全體新論』を著している(1851)。
1856年に退職してから、さらに『西医略論』(1857)、『婦嬰新説』(1858)、『内科新説』(1858)を刊行したが、健康を害したため1859年イギリスへ帰国することになった。ホブソンは西洋のさまざまな医書を参照し、骨格模型、紙製人体模型と照合しながら『全體新論』を訳述したと自序において述べている。多くの章にキリスト教のキーワード(「救世主基督」、「新旧約聖書」など)およびキリスト教的思想が見られるにもかかわらず、彼の著書が「鎖国日本」でそのまま翻刻されたことも興味深い。

『全體新論』安政4年(1857)。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)

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『全體新論』安政4年(1857)。(九州大学附属図書館医学部分館蔵)

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ギリシャ風の「筋肉男」

歯の比較




蘭学から洋学へ

19世紀初頭からは解剖学、外科学、内科学以外の分野が蘭学者の注意を引き、次第に生理学や病理学、眼科学、産科学、婦人科学についての本も翻訳された。それと同時に植物学、薬学、化学や物理学など医学の周辺にある学問の重要性が認識されるようになった。シーボルトなど出島商館の医師による指導や、彼らが持参した道具、資料により、オランダ医学を学びたいという気運が国中で高まっていた。このため優秀な日本人医師たちが私塾を開き、19世紀中頃の牛痘接種の伝来をきっかけに、幕府もようやく西洋医学の有効性を認めるようになった。出島蘭館医ポンペがオランダ流の医学教育制度を導入し、後任者グラタマやマンスフエルドがこれを充実させたことにより、近世医学の土台が築かれた。次第にイギリスやフランス、ドイツも、自然科学や軍事技術面にとどまらず、人文科学においても日本の知識人の注目を引くようになり、江戸末期には蘭学は洋学に取って代わられるようになった。







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