文献学としての医学
中世の西洋医学は文献学で、その中心は研究室や病院ではなく、図書館であった。大学の博士たち(doctores)の主な仕事は古典の解釈であり、体系的な観察や実験は行わなかった。
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大学の授業
Tractatus diversorum doctorum ed Chulachon. Milano, J.A. Scinzenzeler, 1523. 【個人蔵】
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もちろん、戦争、処刑や事故の際には身体の内部に目を向ける機会もあったが、「見る」ことは「観察する」ことや「理解する」ことではなかった。学者にとって「重要」だったのは、古典によって「知られている」事柄であった。もちろん彼らも、まだ多くを知り得ていないことは承知していたが、それでも神はこの世の全てを賢明に意味づけて創造されたと考えていた。万物はこの秩序の中でそれぞれの座を占めているのである。そのため全てを詮索して知る必要はなかった。
「私」という言葉は神のみが用いる、と中世の神秘主義者エッケハルトが述べている。真実を語るのは神の特権で、それでも人が「私」と言うとき、実際にはその人ではなく、神が彼を通して話しているのである。バロック時代の舞台でも、世界劇場を統治する「作家」(autor)という肩書きは神のみを指してる。人は神の道具として登場し、神の権威の前にできる限り身を引いてる。このことは哲学と神学のみではなかった。医師たちも自分のことを好んで「仲介者」、「まとめ役」、「調停者」などという「添え名」で呼んだ。
アラビア人の役割
ギリシア医学の知識は、他の学問と同様、ビザンチン帝国から追放されたキリスト教徒を通じてアラビア人に伝わり、10世紀までギリシアの重要な書物は全てダマスカス、カイロ、バグダッドで翻訳された。これを基にアラビア人は独自の古典医学書を発展させた。ペルシア人ラーヅェス(Rhazes, Al Rhazi, 860-932)、アヴィセンナ(Avicenna , Ibn Sina, 980-1063)、イベリア半島のアラビア王国に住むユダヤ人アブルカシム(Abulcasim, 1013-1106)、アヴェンツォアール(Avenzoar, 1113-1162)、アヴェロエス(Averroes, 1126-1198)やモゼス・マイモニデス(Moses Maimonides, 1135-1204)などが有名である。ギリシアの文献や、薬物学、病院建設の知識において、アラビア医学は中世のヨーロッパ医学をはるかにしの 凌いでいた。
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アヴィセンナの想像図。(Andre Thevet: Les Vrais Pourtraits et vie des homme illustres, grecs, latins et payensより)【個人蔵】
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しかしアラビア医学と中世のヨーロッパ医学には共通点も見らる:古典への固執、占星術の支配、解剖学的な研究への嫌悪、外科学に対する過小評価など。
外科学の位置づけ
ガレノスの時代から外科学と医学は次第に分かれて発展するようになった。「教会は血を忌む」(ecclesia abhorret a sanguine)と表明して、ツールの教会会議は1163年、たいていが聖職者だった医師の手から外科学を奪いました。それ以降実際に患者を治療するのは、床屋外科医、結石摘出師、施術師、行商医、薬草老婆、吸玉師、骨つぎ、検尿者、ヘルニア整復師、魔女、悪魔払いなど、大学教育を受けていない人物が行うようになる。
焼きごてを用いる焼き付け
ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年。Hans von Gersdorff: Feldbuch der Wundartzney. 1517。120 x 190mm. 復刻版:Antiqua, Lindau 1976. 【個人蔵】
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焼きごてを用いる焼き付けは最も重要な療法に含まれていました。これで化膿させ、膿が身体から毒を抜き取ると信じられていました。同様に瀉血も好まれ、これで有毒な血や余った血を抜き取ります。
外科書の挿し絵が物語る治療
16世紀までの外科医学書に掲載されている挿し絵は、患者の治療を物語形式で示していることが多い:
兵士が戦場で矢に当たる。外科医は矢の後部を切り取って引き抜こうとしている。麻酔剤はまだ知られていなかった。木版に彫られた短詩の中で負傷者は神に呼びかけ、勇気を乞うている。
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【参考資料】 ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年。Hans von Gersdorff: Feldbuch der Wundartzney. 1517. 125 x 200mm.
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図会を拒否する古典派
ヨーロッパの大学は最初から国際的な教育研究機関であり、大学生は今日でも大学を変わることがある。講義は当時知識人の国際語だったラテン語で行われた。そのため学術書もたいていはラテン語で書かれ、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語で医書を出版することは極めて異例のことであった。挿し絵を非学問的なものとして否定する学者は少なくないので、伝統を重んずる解剖書は、16世紀に入ってからもたいていは図が付ていません。
ニコラウス『ラテン語からギリシア語に翻訳されたガレノスの著作』フェラリア、1509年。Nicolai Leoniceni Vincentini in Libros Galeni e Graeca in Latinam linguam a se translatos praefatio communis [...]. Ferrariae, Per Joanem, 1509. 200 x 300mm.【九州大学図書館医学部分館蔵】
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医学の権威ガレノスの著作はおびただしい数の版が出版されており、それについての解釈も繰り返し行われていた。これはその1例だが、この本の所有者はそれでなくても詳細な注釈が施された本文に、さらに注釈を加えている。知識人の国際語はラテン語であり、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語で医書を出版することは極めて異例のことであった。
伝統を重んずる解剖書は、16世紀に入ってからも図が付されていなかったものが多い。
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ファロッピオ『解剖学の観察』ヴェニス、1562年。
Gabriello Falloppio: Observationes anatomicae. Venetiis: Apud Marcum Antonium Ulmum, 1562. p.97. 100 x 150mm.【九州大学図書館医学部分館蔵】 |
死体解剖
教会は死体解剖を正式に禁止したことは1度もなかったが、13世紀までは解剖学の発展は見られなかった。それ以降、法医学やその他の理由からボローニャ、フィレンツェ、モンプリエ、アヴィニオンでは解剖は行われていた。にもかかわらず医師たちは自らの目で観察するのではなく、ガレノスが記した事だけを見ていた。
古典を重んずる解剖学
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ボローニャの医師モンディーノ・デ・ルッツィ(1326年没)による手稿のイタリア語訳より(Mondino de Luzzi: Fasciculo di Medicinae, Venezia 1493.)【個人蔵】
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解剖が行われている間、教授はガレノスを読み上げ、外科医が身体を開いた。その後教授が器官を示して「5分葉の肝臓」や、その他ガレノス解剖学の不思議を説明した。
お粗末な内臓を描いた瀉血図
瀉血図には体内の器官が描かれていることも多かったが、今日の私たちから見れば、間違いも多く、かなり単純化されている。
目で見た解剖学的構造(Augenscheinliche Anatomy)
ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年。Hans von Gersdorff: Feldbuch der Wundartzney. 1517.
【個人蔵】
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中世のヨーロッパが立証したことは、古代エジプトやバビロニア、アステカ帝国でも見られる。身体を開いただけでは、解剖学の知識が増えることにはならなかった。
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